太田述正コラム#0334(2004.4.29)
<サッチャー時代の英国(その1)>
1 サッチャー時代の英国経済
マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher。1925-)が英国の首相であった時代(1979??1990年。なお、保守党党首であった期間は、1975??1990年。(http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/sa/thatcher.html。4月29日アクセス)は、減税、民営化と規制緩和等によって英国経済が奇跡的回復を見せた画期的な時代というイメージが流布しています。
私は1976年に米国留学を終えて帰国する途中ロンドンに立ち寄ったのですが、その活気のなさと言い、建物の老朽ぶりといい、まるで第三世界の国に来たかのようで、強いショックを受けました。ですからその11年後の1987年の暮れから1988年の暮れまでロンドンに滞在した時、ロンドンが見違えるように活気を帯び、新しい超モダンな建物が次々に建設されている姿を目の当たりにして、サッチャリズムに心から敬意を表したものです(注1)。
(注1)私の留学先の国防省の大学校(Royal College of Defence Studies)もサッチャリズムの猛威を免れることはできなかった。この大学校には、年一回英国の首相が講師としてやってくるのが習わしだったが、サッチャーは、首相就任後最初の年はやってきたものの、当時の校長(中将)とそりが合わなかっただけでなく、この大学校の、試験もなく成績もつけず、「授業」時間が午前中だけで社交と遊びを奨励し、あちこちに「修学」旅行ばかりしている、という貴族主義的優雅さがお気に召さなかったようで、それから一度も来校しなくなったばかりでなく、この大学校の大改革を指示し、ある少将を改革担当に任命して改革案の作成を命じ、大学校に派遣した。(おかげで私はサッチャー首相の謦咳に接することができなかったというわけだ。当時この少将は大学校に常駐していた。)結局、大学校側の抵抗が功を奏し、改革は形だけのものに終わった。
しかし、冷静に振り返ってみると、サッチャー時代の英国経済の実績には余り見るべきものがありません。
それまでに比べて経済成長率が加速したわけではありません(注2)し、製造業における雇用の急速な減少にもかかわらず、ドイツやフランスとの生産性格差が縮小した訳でもありません。唯一うまくいったことと言えば、試行錯誤の末にたどりついたインフレ・ターゲット政策くらいです。
(注2)ドイツやフランスの経済成長率がこの頃から低迷を続けたため、英国の経済が相対的に好調に見えたことは事実。
問題なのは、サッチャー時代の1980年代に英国の下から五分の一の最貧層の所得が年0.4%しか増えなかったのに、上から五分の一の最富層の所得は年3.8%も増えたことです。
その結果、かつて英国の著名な労働経済学者のビバリッジ(William Beveridge。1879-1963。http://cepa.newschool.edu/het/profiles/beveridge.htm(4月30日アクセス))が1942年に発表したレポートの中で指摘した、怠惰、無知、疾病、欠乏感、スラムという五大悪が英国に再び出現するに至りました。
サッチャー保守党政権によってもたらされた貧富の差の拡大という状況は、メージャー政権時代を経て、ブレアの労働党政権になってからも、容易に是正できないでいます。
(以上、特に断っていない限り、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1185838,00.html(4月5日アクセス)による。)
結局のところ、経済政策面においては、サッチャー政権は、1980年代に入って本格化した北海の化石燃料資源(石油、天然ガス)採掘(http://www.leopardmag.co.uk/feats/northsea.html。4月30日アクセス)による化石燃料純輸出国への転換という天からの贈り物を活用することで英国経済を真に再活性化することに失敗した無能政権、という烙印を押されてもやむをえないでしょう。
その北海の化石燃料資源の枯渇で英国は、天然ガスは2006年までに、石油は2010年までに純輸入国に転落すると見込まれています(日本経済新聞2004.4.30朝刊19面)。
このままでは、英国の本格的没落は目前に迫っていると言っても過言ではありません。
何を隠そう、冒頭に記した私の1976年時点での印象は、米国と英国の経済格差に、そして1978-88年時点での印象は英国の富裕層が集中して住むロンドンの繁栄に、目をくらまされたためだったのです。
(続く)