太田述正コラム#7742(2015.6.22)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その22)>(2015.10.7公開)
「<支那人>は政治を国家維持の機関だとか、人民を統治する方法であるとかは考えておらぬので、政治は政客の競技と考えている。それでその成績の善悪は問わないで、その競技がいかにうまく行われたかということが非常な興味を引いている。
大体世界の政治は歴史的に競技に傾きつつあることはもちろんであるが、支那はその点において古くから徹底しておる。ただ支那人の政治的競技は、競技者も見物人も自分たちの階級だけでこれをやっておるので、西洋の政治的競技は見物人を民衆としておるというくらいの差である。ゆえに見物人も競技者も専門家である国は、その競技の巧妙さは遥かに素人たる民衆を見物人とするよりか進歩しているわけであるが、そのかわり利害得失は、民衆に何らの影響を与えないのであって、政客自身等だけの利害得失である、この政客は耕さず、織らずして暮さんとしておる仲間であるから、暮す資本だけを他から徴収しなければならぬ、すなわち見物人は自分自身等であるが、見物料は他から徴発しておる。
⇒内藤についての否定的結論を出した以上は、シリーズに幕を下ろすべきなのかもしれませんが、酔狂で、続けることにしました。
こういった議論を行う場合は、登場する言葉の定義、この場合は、「政治」の定義、をはっきりさせなければならないのですが、内藤は、一切やっていません。
どうやら、この「政治」には軍事が含まれず、従ってまた、当時の「対外政策」において軍事は不可分であったので、「対外政策」も含まない、つまり、この場合、「政治」とは「(軍事を除く)内政」を指しているようです。
さて、そのような政治において、「国家維持の機関」ないし「人民を統治する方法」であることと、「競技」であることとを対置させる内藤の発想は間違っています。
なぜなら、両者は次元を異にしており、例えば、「国家維持の機関」ないし「人民を統治する方法」を「競技」的に運営したり行ったりする場合がありうるからです。
実際、イギリス(英国)は議会主権の国であるところ、その議会における討論は、聴衆たる議員達及び傍聴者達を採点者として、競技的に演技たっぷりに行われてきたところです。
(当然、選挙の際には、候補者達が有権者達を対象に政見を演技たっぷりに訴えるわけです。)
また、同じやり方が、その下部機関である地方議会群においても、更には、やはりその下部機関である裁判所群においても・・この場合は、(民事の場合)弁護士同士ないし(刑事の場合)弁護士と検事が、大陪審及び小陪審の陪審員達を対象に・・行われてきたところです。
で、大雑把にですが、欧州諸国では、このようなイギリスの政治が大幅に水で薄められた形で行われてきたのであり、米国の政治は、イギリスと欧州の政治の中間でイギリスに近い、といったところである、と私は考えています。
いずれにせよ、欧米では、政治は、昔も今も競技なのであり、昔はそうではなかった、ということは言えないのではないでしょうか。
対する支那ですが、私見では、その政治は、昔も今も競技であることはイギリスと同じだけれど、競技の採点者は、「民衆」はもとより、「専門家」でさえなく、基本的に皇帝ただ一人であった、従って、演技の中心は言論ではなく、皇帝の信任を得るための、競争者達ないし潜在的競争者達を出し抜く根回しであった、のではないでしょうか。(太田)
支那で政治が人民の利害に関係のあった時代は、<前漢後漢の>両漢までの時代であった。この時代の地方官は、後の地方官の標準ととせられておるものであるが、それは裁判をうまくやったということと、兼併<(注30)>者を圧えつけるということ、盗賊を絶やすということ、そのためには随分骨を折ったものである。
(注30)「他人の土地・財産を奪い自分のものとすること。」
http://www.weblio.jp/content/%E5%85%BC%E4%BD%B5
⇒時代が違うこともあり、この本にそもそも典拠が付されていないことは咎めないとしても、せめて、具体例を挙げながら論旨を進めて欲しかったと思います。
強い疑問符を付けつつ、先に進むことにします。(太田)
その時は実際官吏の仕事は民政に効能があった、しかし当時でさえも名地方官は必ずしも名宰相ではなかった。宰相というものは宮廷を中心にした政府に立って、宮中府中の関係をうまく処理するので、それがすなわち支那人からいうと「君心の非を格(ただ)す」<(注31)>とか、「陰陽を燮理(しょうり)する」<(注32)>とかいう仕事であって、宰相たる器と地方官たるの器とは別物である。
(注31)「孟子曰、人不足與適也、政不足閒也、惟大人爲能格君心之非、君仁莫不仁、君義莫不義、君正莫不正、一正君而國正矣。
<邦訳:>孟子は言う。「つまらぬ人間などいちいち責めるに値しない。個々の政治の誤りもいちいち責めるに値しない。ただただ大人(たいじん。立派な人物。本章句下、十一参照)が君主の非を常に正していけばよいのであって、そしてそれができるのは大人だけだ。君主が仁となれば不仁はなくなり、君主が義となれば不義もなくなり、君主が正しくなれば不正もなくっていく。大人が一たび君主を正せば、それで国も正しくなるというものなのだ。」(『孟子』離婁章句上二十)
http://sorai.s502.xrea.com/website/mencius/mencius07-20.html
(注32)「《「書経」から。「陰陽」は、万物を作り出す二つの気。「燮理」は、やわらげおさめること》政道が正しく行われれば、天地が感応して陰陽が自然にととのう。宰相が国をよく治めることについていう。」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/17097/m0u/
この漢時代くらいは、天子その者は既に一種の政客化しておったので、中央政府は天子という政治商売人の使用人が取り捲いておったが、地方官はまだ真面目に商売気をはなれて民政をやるものがあった。それが近来になるにしたがって、支那でいう「一命以上の官吏」<(注33)>は悉く政客化した。
(注33)周の時代、官吏の等級は一位から九位の9段階に分かれていた。
http://baike.baidu.com/subview/1660097/5826602.htm
官吏はすなわち天子を取り捲いた政客階級の団体である。官吏の商売と地方の安全ということは、何の関係もなくなって来た。これは殊に隋の時に「郷官」<(注34)>を廃してからだといわれておるが、しかし隋が郷官を廃したのが、既に政治が一種の階級の手に落ちたがためであったので、殊に隋が制度上官吏の渡り者たることを承認したことになったから、ますます政治は政客の商売となってしまった。」(276~277)
(注34)「秦・漢・・・当時県の下の地方行政組織である郷には三老,有秩 (ゆうちつ) ,嗇夫 (しょくふ) ,游徼 (ゆうきょう) の郷官がおかれた。有秩以下は郡や県から派遣されて,それぞれの訴訟,徴税,治安などを司る下級官吏であったが,三老には秩禄はなく,民の教化を司ることを任務とした。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E8%80%81-71640
(続く)
内藤湖南の『支那論』を読む(その22)
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