太田述正コラム#7760(2015.7.1)
<内藤湖南の『支那論』を読む(その30)>(2015.10.16公開)
「芸術殊に絵画等のごときにおいても、宋以来の院画<(注48)>はいろいろな変遷を経来(へきた)っておる間に、漸次南画<(注49)>に向かって傾いて来た・・・。
(注48)院体画。「<支那>における宮廷画家の画風。伝統を重視し、花鳥や山水など写実的で精密に描くのが特徴。唐代に起源を持つ画院(翰林図画院、徽宗の時代に最も盛ん)で描かれるような画であり、花鳥・人物・山水などを宮廷趣味に即して描いた。代表的画家としては、北宋の徽宗や南宋の夏珪、馬遠、梁楷などが挙げられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E4%BD%93%E7%94%BB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E4%BD%93%E7%94%BB#/media/File:Ma_Yuan_Walking_on_Path_in_Spring.jpg ←事例。
(注49)南宗画。「禅に南北二宗があるのと同様、絵画にも南北二宗がある。李思訓から馬遠、夏珪に連なる北宗派<・・すなわち、院体画・・>の「鉤斫之法」(鉄線描、刻画)に対し、王維の画法渲淡(暈し表現)から始まり、董源、巨然、米芾、米友仁、元末四大家に連なる水墨、在野の文人・士大夫の表現主義的画法を称揚した流派である。・・・」日本の画壇に大きな影響を及ぼした。「日本南画<(文人画)>は・・・<支那>の在野文人の画法を瞳憬し、日本的風景に近い暈し表現を主とした南宗画を範として狩野派と対抗した。その後、池大雅(1723年~1776年)、与謝蕪村(1716年~1784年)により大成され、浦上玉堂(1745年~1820年)、谷文晁(1763年~1841年)、田能村竹田(1777年~1835年)、山本梅逸(1783年~1856年)、渡辺崋山(1793年~1841年)等江戸時代後期の一大画派となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%94%BB
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%94%BB#/media/File:Taigado_gafu0.jpg ←事例。
その南画の正統ともいうべきものは、・・・明の中頃まではなお芸術家として専門の大家なるものを出し得る状態であったが、その後の傾向は絵画は読書人階級一般に普及した芸術になりつつあるので、明・清時代の読書人で多少絵画をよくせない人がほとんど無いようになって、その学問上芸術上の自然の修養が各々の個性を絵画の上に表現するようになって来たので、元・明時代まであったような大家と称すべきものはますます出難くなったが、そのかわり芸術趣味の文化階級一般に浸み込んだことは非常なものである。・・・清朝になって、これにも商人階級が中心となったがために・・・一種の写生的傾向を明らかにもって来た・・・。・・・
<このように、>一方において文化階級が地方の読書人すなわち樸学者まで達しており、一方において商人階級にまで達しており、そして経済組織の新しき変化は、まず工業等の起る前に原料の生産者たる地方農民の発達を促すということが、わかりきっておる以上は、支那の新しき文化階級は労働者等のごとき種類ではなくして農民であるべきことは想像するに難くない。ただその農民が文化階級となった時にその文化の主体が何物であるかは、世界の国民生活に支那より先へ進んだものがなくて、我々に暗示を与えるところのものがないから、これを今想像するに苦しむのである。・・・
⇒自分自身の高校時代の世界史と日本史の文化史の部分を思い出しながら、このくだりを読みましたが、前にも述べたように、本当に、明清時代に、「文化階級が・・・商人階級にまで達した」のかどうか、心許ない限りであることもさることながら、世界(欧米)について無知な内藤に「世界の国民生活に支那より先へ進んだものがな<い>」、などと言われても苦笑するほかありません。
「世界」については無知な内藤も、少なくとも、日本で、「商人階級」どころか、「7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた」万葉集に「庶民」の和歌類が多数収録されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
ことや、「わび茶はその後、堺の町衆<(「商人階級」)>である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E9%81%93
ことや、俳諧が「農民」出身で「厨房役か料理人」上がりらしい松尾芭蕉によって芸術化された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%B3%E5%8F%A5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89
こと、くらい周知していたはずなのに・・。(太田)
いくらかそれの明らかに文学の上にあらわれたものとしては、例えば「紅楼夢」<(注50)>という小説にあらわれた貴族生活のごときものであろうかと思われる。
(注50)「清朝中期乾隆帝の時代(18世紀中頃)に書かれた・・・長篇白話小説。作者は曹雪芹とするのが定説・・・。『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』とともに旧<支那>の傑作古典小説に数えられ、「<支那>四大名著」とも言われる。・・・三国志演義の「武」、水滸伝の「侠」に対して紅楼夢は「情」の文学であるとされる。その一方で、主人公たちは儒教道徳や官僚の腐敗、不正に対する痛烈な批判を口にしており、乾隆盛世と呼ばれた当時の社会に対する批判的色彩も帯びている。また、当時の上流階級の日常生活が登場人物400人を超える規模で細部まで克明に描かれており、文化史的にも価値があるとされる。男女の人情を描いた中国の長篇小説としては金瓶梅に次いで古いものであるが、恋愛模様がプラトニックに徹しており情感も洗練を極めている点において好対照の位置にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E6%A5%BC%E5%A4%A2
新しき文化階級の生活が向上すれば大多数のものが、あの貴族生活に類似したものになり得るかと考えられる。・・・
⇒上掲ウィキペディア中にも源氏物語との対比の記述がありますが、『紅楼夢』は、11世紀初頭までに完成したところの(しかも女性の手になる)『源氏物語』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
から7世紀以上も経って書かれたものであり、文芸面でも支那が日本に比して甚だ遅れていたことの一徴表であるとも言えるのであって、内藤が何を言いたいのか、戸惑うばかりです。(太田)
あるいはその次の時代には支那でも労働階級が勢力を得る時が来るかも知れぬが、その時になってますます文化が多数の人に普及するということになれば、恐らくこの総合的文化生活を簡易化したものが一般に採用されるだけであって、その外に新しい文化主体を生ずるかどうかは自分の能力では予想し兼ねるのである。」(320~322、324)
⇒支那の文化主体に関しては、どの階級ということよりも、阿Q性(非人間主義性)を脱した人々であるかどうかが重要なのであり、かかる文化主体の形成に向けて、現在、中共の官民が鋭意努力を重ねているわけです。(太田)
3 終わりに
内藤の思い込みや事実の誤りが反面教師として面白かった上、彼の予言のうちの若干の(まぐれ当たり的(?))的中も興味深く、また、支那に係る、自分の昔の知識の復習・拡充を行う機会も与えてくれたことから、内藤の『支那論』を読む本シリーズは、予定を大幅に超える長期連載になってしまいました。
お付き合い、ありがとうございました。
(完)
内藤湖南の『支那論』を読む(その30)
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