太田述正コラム#7768(2015.7.5)
<現代日本人かく語りき(続)(その2)>(2015.10.20公開)
2 保阪正康「昭和史から学ぶこと」(C:16~27頁)
 保阪は、同志社大文1963年卒のノンフィクション作家・評論家、という人物です。(上掲)
 「・・・
 太平洋戦争について語り継がねばならない論点
  一、シビリアンコントロールの不在・・・
 英米では選挙で選ばれた大統領や首相が軍を動かす大権を持ちました。ナチスドイツや旧ソ連においてさえ軍が独走したのではなく、ヒトラーやスターリンが文官として群を動かしたのです。ところが戦前の日本では「統帥権干犯」という言葉を楯に、政治家が軍事に口出しすることが許されなくなり、軍が政治を支配していきます。・・・
⇒後述するように、戦前(及び戦中)の日本でも政治家は一貫して軍事に口出しを許されていました。
 また、チャーチルが首相になった時には既に英国は、有事体制下、選挙が行われなくなっており、結局、第二次世界大戦が終わるまで、チャーチルは選挙の洗礼を受けていません。
 すなわち、英国で、戦前最後に総選挙が行われたのは1935年11月で、対独戦後の1945年7月まで総選挙は行われませんでした。
http://www.election.demon.co.uk/geresults.html
 そもそも、チャーチルが首相になったのは、選挙とは無縁の貴族院議員のハリファックスがチェンバレン首相からの打診を固辞した結果に他なりません。
 チャーチル自身は選挙で当選した下院議員であったことは確かです
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB
が、彼が首相になったのは、断じて選挙によってではありません。 
 史実に無知であったり、歪曲したりする、ノンフィクション作家・評論家が「活躍」する現在の日本は嘆かわしい限りです。(太田)
 昭和11年当時、大蔵省主計局で陸軍軍事費担当だった福田赳夫元首相は、「臨時軍事費の内訳について陸軍に尋ねると、”統帥権干犯だ”と脅された」と回想している。・・・」
⇒この挿話は初耳ですが、一般に流布しているのは下掲の後段の挿話です。↓
 「主計局が力を持っていたのは戦後においてだけではない。
 昔陸軍の戦前においても、主計局は軍部に対しても強い発言権を持っていた。
 福田赳夫元首相が陸軍担当の主査だった時の話である。
 福田主査が旧満州の視察をするため、陸軍が用意してくれた専用機が飛び立とうとした時、一人の将軍があわててかけつけ、辞を低くして同乗を求め、福田主査は鷹揚に許可した。
 その将軍こそ当時は関東軍兵司令官、後に陸相、参謀総長、首相を兼ねて権力を一心に集めた東条英機だったのである。
 ーー中略ーー
 渓谷にさしかかった時のこと、福田<陸軍担当>主計官が「きれいな川だ。マスでもいるのかな」とつぶやいたところ、同行の陸軍軍人が聞きつけ、列車を鉄橋の上に止めさせようとした。
 主計官殿に釣りを楽しんでいただこうというのだ。
 福田は他の乗客の迷惑を考えてさすがにそれはことわったそうだが、大蔵省内外に伝わる”伝説”では、実際に列車をとめたことになっている」
http://ameblo.jp/yoshma/entry-11537664249.html
 そして、福田らの大蔵官僚が政治家たる大蔵大臣、ひいては(政治家によって構成される)内閣の指揮監督の下で査定をした陸軍予算や海軍予算を含め、全予算を決定していたのは、国会であり、選挙で議員が選ばれない貴族院は「衆議院とは同格の関係にあったが、予算先議権は衆議院が持っていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E6%97%8F%E9%99%A2_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
ので、事実上、陸軍や海軍の予算は選挙で選ばれた衆議院議員達が決めていた、と言っていいでしょう。
 (なお、「貴族院は概して非政党主義を取ったため政党には厳しかった一方で政府を窮地に陥れることもあり、独自性を発揮した。戦時下においても政党が軍部に迎合していったのに対して総じて冷静であり、絶頂期の東条内閣を議会で批判したのも貴族院であった」(上掲)ところです。)
 なお、臨時軍事費(特別会計)についても、総額や財源は、大蔵省/内閣/国会が決定していたことも忘れてはならないでしょう。(太田)
 「二、<20世紀の戦争で>他国ではあり得ない戦術(特攻、玉砕)の採用・・・」
⇒保阪自身が、「戦闘の一局面でそうした極限状態が起こり得ることは否定しません」と記しているところではありますが、本コラムにおける、特攻(コラム#省略。私は、一貫して特攻が合理的戦術であったと指摘してきている)や玉砕の一事例たるペリリュー島(コラム#2128、2411、2544、2849、3069、3075、4523、5086、5094、6235、7563)のくだりを読めば、そんな指摘はナンセンスであることが、誰にも分かることでしょう。
 ペリリュー島の戦い自体が、古典ギリシャのテルモピレーの戦いに譬えられるところ、考えてみれば、日米戦争(1941~45年)そのものが、ペルシア戦争(BC499~449年)に譬えられるのではないでしょうか。
 どちらも、その時の、未開文明を体現した世界の超大国によるところの、先進文明を体現した小国・・当時のギリシャは極小国連合だったが・・に対する侵略戦争であったからです。
 どちらの場合も、小国側が驚異的な健闘をしたところ、日米戦争においては不幸にも小国側が敗北し、ペルシア戦争においては幸いにも小国側が勝利した、という正反対の結果に終わりましたがね。(太田)
 
(続く)