太田述正コラム#7792(2015.7.17)
<米独立革命の罪(その3)>(2015.11.1公開)
今では、冒険的な中産階級の男性達や女性達は、山々、諸国境、そして、その多くの人々の忍耐強さを検証したところの、窮屈で悪臭のする船室群に耐えながらだが、大西洋でさえ、横切りることができた。
この旅行者達は、もう一つの革命に火を付けるために一つの革命から諸観念を運んだだけでなく、彼らは、当時も現在と同様、しばしば、後ろに留まった隣人達とは、世界について違った見方をした。
自国でも外国でも、これらの遍歴者達は、国境なき新しい世界として彼らが見ていたものの中で、国々における諸妥協の諸欠陥に異議申し立てを行った。
旅行は、「国々の諸偏見を大局的に俯瞰させた」、と米国の起業家のエルカナ・ワトソン(Elkanah Watson)<(注8)>は記した。
(注8)1758~1842年。米国の旅行家、作家、農業家、運河掘削推進者、銀行家、ビジネスマン。
https://en.wikipedia.org/wiki/Elkanah_Watson
さて、米独立革命は、本当に、ペインがそうであると考えたように、「世界を一新することを始めた」のだろうか。
<答えは、>要するに、はい、だ。
商人達は、<ペインの著したパンフレットである>『コモンセンス』を大西洋を横切って持って行った。
それは、すぐにオランダの港に到着し、欧州大陸中の諸新聞紙上に再掲載された。
ジャマイカの奴隷達は、米国の愛郷者達(patriots)の自由への諸要求に関する、夕食の席での諸会話に耳を傾けた。
フランスのジャーナリスト達は、米国人のようになるという欲求を抱き、ジュネーヴ人の時計職人達が<スイス?(太田)>国籍を求める大義を取り上げた。
シエラレオネの沿岸部においては、<(現在のカナダの)>ノヴァ・スコティア(Nova Scotia)から<(現在のシオラレオネの首都の)>フリータウン(Freetown)まで旅行して来たところの、かつての米国の奴隷達が、テムネ(Temne)やモリ=カヌ(Mori-Kanu)<(注9)>の戦士達と同盟して彼らの自治権を<共に>防衛しようとした。
(注9)テムネは、現在のシエラレオネで35%を占める最大の民族集団。
https://en.wikipedia.org/wiki/Temne_people
モリ=カヌについては、分からなかった。
だからこそ、ペインは、ロンドンで、1792年に、単に米国の独立だけでなく、「世界中の革命」のために祝杯を上げたのだ。
米国とフランスの諸観念の輸出によってどんな他の諸革命が直接勃発したのだろうか。
革命への「普遍的な呼び声」は、米国から、1782年にはジュネーヴ、1787年にはオランダ、1788年にはベルギー諸州とリエージュ(Liege)<(注10)>、そして、1789年にはフランスを震撼させた。
(注10)ベルギーの「ワロン<(フランス語)>地域の中心都市である。中世にはリエージュ司教領の首都として栄えたため、古都とも呼ばれる。日本人がベルギーワッフルと呼ぶリエージュ式ワッフル発祥の地でもある。・・・リエージュ<では、>革命<が>、1789年8月18日に・・・発生した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5
<そして、>パリからは、革命的火花群が、サン・ドマング、グアドループ(Guadeloupe)<(注11)>、ポーランド、マルティニーク(Martinique)<(注12)>、シエラレオネ、アイルランド、イタリア、そして、ハンガリーにおける、あるオランダ人がそう呼んだところの、「旧体制の火口(ほくち)(the tinder of the Old Regime)」に点火した。
(注11)「フランスの海外県」の1つ。「カリブ海に浮かぶ西インド諸島のなかの<(セントルシアの南の)>リーワード諸島の一角をなす島嶼群である。最も大きい島はグアドループ島・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
(注12)「フランスの海外県の1つであり、カリブ海に浮かぶ西インド諸島のなかのウィンドワード諸島に属する一島。海を隔てて北にドミニカ国が南にセントルシアが存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%AF
それは、小さな都市国家群でも大きな諸国でも同様に鳴り響いた。
しばしば、それはくすぶっただけで終わり、そうでない場合は、帝国の諸軍が大挙して押しつぶした。
大西洋世界が、1776年から1804年の間ほど固く相互に繋がっていたことはない。
奴隷制を廃止するためにサン・ドマングのル・カプ(Le Cap)<(注13)>に集まった15,000人の人々は、フランスの弁務官を鼓吹し、「人々は自由かつ諸権利において平等に生まれ、生きる」と宣言させた。
(注13)「1789年夏、フランス革命の勃発がサン<・>ドマング植民地の転機となった。・・・1790年、・・・有色自由人らが自分達もまたフランス人権宣言の下にあるフランス市民であると主張し内戦を始めた。さらに1791年8月22日、北部カプ=フランセ近くの森で黒人奴隷達が主人達に対する反乱であるハイチ革命を開始した。・・・
1793年8月29日、・・・革命政府・・・<によって>使節として送り込まれた・・・ソントナは北部地域の奴隷達に、きわめて限定されたものではあるが自由を宣言するという思い切った手に出た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B0
自由の約束は潮流と共に流れ来て、蜂起の脅威はそれと同じ位直ちに流れ出た<、というわけだ>。・・・
トマス・ペインは、パリで投獄された後、断頭台を間一髪のところで逃れた。
彼の監獄仲間の、自称人類の雄弁家<([citoyen de l’humanite})>たる、オランダの革命家のアナカルシス・クルーツ(Anacharsis Cloots)<(注14)>は、ペインほど幸運ではなかった。
(注14)1755~94年。フランス革命で活躍したオランダ系のプロイセン貴族(男爵)。「イエス・キリストの個人的な敵」とも自称。フランス国籍を付与されるが、最終的には、恐怖政治下、断頭台の露と消える。
https://en.wikipedia.org/wiki/Anacharsis_Cloots ([]内も)
<もっとも、>ペイン自身も、イギリスでは逐われ、米国では歓迎されず、いかなる国においても心が安んじることはなかった。
革命諸体制は、凝り固まり、帰国した革命家達は、新しい諸国の間に挟まれて家なき子になった自分達自身を見出した。
若干の者達は、筋金入りの反革命者達になったが、大部分の者達は、国々の政治と歩調を合わせられなくなった自分達自身を見出した場合ですら、自分達の諸理念を、より固守した。」(C)
(続く)
米独立革命の罪(その3)
- 公開日: