太田述正コラム#7820(2015.7.31)
<意外な取材(その2)/英東インド会社(その3)>(2015.11.15公開)
–意外な取材(その2)–
4 安保法制を考えるための予備知識
下掲は、女性セブン記者の取材の冒頭に、私から、上掲の趣旨の話を行う際に、用いた資料的メモです。
過去コラムと殆んど重なっていますが、皆さんの頭の整理にも使っていただけるのではないかと考え、ここに転載することにしました。
なお、六と七については、もともとは資料的メモに入っておらず、私がその場で付け加えて話したものを逆に項目的に書き起こしたものです。
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一 中国共産党は日本が大好き
「アジア・アフリカ会議(・・・Asian-African Conference、AA会議またはバンドン会議)は、第二次世界大戦後に独立したインドのネルー首相、インドネシア大統領スカルノ、中華人民共和国首相周恩来、エジプト大統領ナセルが中心となって開催を目指した会議の総称。1955年にインドネシアのバンドンで第1回が開催されたが、第2回は開催されなかった。・・・その後、2005年にバンドン会議50周年記念会議が開催され、今後の定例化が決定された。・・・
日本は高碕達之助経済審議庁長官を代表として十数名が参加したが、他国はいずれも元首、首相級が出席し・・・た。・・・
なお、中華人民共和国と敵対関係にあった中華民国や大韓民国、さらに朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)やモンゴル人民共和国(現モンゴル)は招待されなかった。・・・
<また、>バンドン会議60周年を記念する首脳会議<が>2015年4月22日から3日間の日程で行われ、80カ国以上の首脳が会議に出席した。関係が悪化していた日本と中国であったが、日本の内閣総理大臣安倍晋三と中国の国家主席習近平が首脳会談を行い関係改善を進めることに同意した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BC%9A%E8%AD%B0
ちなみに、中華人民共和国は1949年10月19日にモンゴルとの国交を樹立していた・・中華民国(台湾)は、1945年に独立を承認したものの、1953年に承認を取消し、現在に至っている・・
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/41122/1/KJ00004856592.pdf
というのに、モンゴルが招待されなかったのは、モンゴル独立がソ連(ロシア)がモンゴルを傀儡化したおかげであって、日本のおかげではなかったから、と解してよいのではないか。
また、北朝鮮が招待されなかったことと併せ考えると、中国共産党のソ連に対する潜在的敵意を、そこに見ることができるのかもしれない。
「後に日本の初代国連大使となった加瀬俊一氏(当時・外務省参与)は、この時の様子を後にこう語っています。
「1955年4月、インドネシアのバンドンという所でバンドンA・A会議が開かれました。A・Aというのはアジア・アフリカです。この中心はインドと中国とエジプトです。インドのネール、中国の周恩来、エジプトのナセルが中心になって、独立したばかりの新興諸国29ヵ国代表が集まりました。
その時、日本にも招待状が来たんです。国内ではアメリカに気兼ねして参加に慎重な人が多かったんです。私は『出た方がいい』と言ったんです。敗戦後間もない日本にとっては、国際社会に復帰する絶好のチャンスだった。
それで出席することにはなったけれども、外務大臣は都合が悪くて私が行くことになったんです。特命全権大使として『出た方がいい』と言ったのは私だけなんだけれども、内心不安だった。というのは、アジア・アフリカというけれども、アジアは大東亜戦争の戦場でした。日本はいいこともしているけれども、ご承知のように悪いこともしなかったわけじゃない。それでね『行ったら白い目で見られるんじゃないか』と思ってあまり気がすすまなかった。
しかしその会議に行くとね、あちらこちらからアフリカの代表、アジアの代表が出て来てね、『よく来たね!』『日本のおかげだよ!』と大歓迎でした。
それは『日本が大東亜共同宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした。その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然としてイギリスの植民地・オランダの植民地・フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある。』ということだった。
この時は『大東亜共同宣言』を出してよかった、と思いました。我々が今日こうやって独立しました、といって『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的だった。こんな会議が開けるのも日本のおかげですと、『やぁー、こっちへ来てください』『いやぁ、今度は私のところへ来てください』と言ってね、大変なモテ方だった。『やっぱり来てよかったなぁ』とそう思いました。
( 中略 )
その翌年、日本は晴れて国連に加盟して、私は初代国連大使になりました。アジア・アフリカグループが終始熱心に日本の加盟を支持した事実を強調したい。
A・A諸国から大きな信頼と期待を寄せられて、戦後我が国は今日の繁栄を築いてきたのです」
(平成6年7月、京都外国語大学における加瀬俊一氏の講演より)」
http://dengon.holy.jp/zz01.html
「中学入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧月性の詩「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した。
將東遊題壁 釋月性
男兒立志出郷關 男児 志を立てて 郷関を出づ
學若無成不復還 学 もし成るなくんば 復還らず
埋骨何期墳墓地 骨を埋むるに 何ぞ墳墓の地を 期せんや
人間到處有靑山 人間 到るところ青山あり
— 釈月性 将東遊題壁 「碇豊長の詩詞 詩詞世界」日本漢詩選
・・・1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。後に毛沢東は米国記者エドガー・スノーに日露戦争当時の日本の歌詞を紹介し、次のように告白している(なお左記に紹介する詩が、日露戦争時のものであるかについては諸説ある)。
「雀は歌い 鶯は踊る 春の緑の野は美しい ざくろの花は紅にそまり 柳は青葉にみち 新しい絵巻になる」
当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです。・・・
北京大学の図書館にて館長の李大釗<(早大留学)>とともに司書補として勤めるかたわら、・・・毛は同大学の聴講生として登録し、陳独秀<(成城学校留学/日本亡命)>、胡適、そして銭玄同<(早大留学)>のような知識人たちといくつかの講義やセミナーに出席した。上海に滞在中の毛は、共産主義理論を取り入れるためにできる限り読書<(邦訳から重訳された『共産党宣言』等)>に勤しんだ。・・・
<日華事変当時、>毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。・・・毛沢東は延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだ。
毛沢東は裏で日本軍と手を結び、蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ていた。延安で八路軍が栽培していたアヘンの販売で日本軍と結託していた。また積極的に占領区内の日本軍と商売を行い、晋西北の各県は日本製品であふれていた。中共指導者と日本派遣軍最高司令部の間で長期間連携を保っていた。毛沢東の代理人は、南京の岡村寧次大将総本部隷属の人物であった。
<日本敗戦直後、>毛は・・・「たとえ、われわれがすべての根拠地を喪失したとしても、東北(満洲)さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と述べた。・・・
1964年7月、日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返した。・・・
1970年代に国務院副総理陳永貴が日中戦争のとき「漢奸」だったと告白した際、毛沢東はそれを一笑に付して、「日本人はわが救命恩人だ。命の恩人の手伝いをし、漢奸になったということは、つまりわたしに忠誠を尽くしたということだ」と言った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
「毛沢東<の>・・・中華人民共和国成立の1949年から死去した76年までの行動や発言をまとめた「毛沢東年譜」(中央文献 出版社)・・・の中で対日関係について56年9月、日本の元軍人代表団と会談した際「あなたたちの国家には現在、天皇がいます。会われたらよろしくお伝え下さい」と述べ・・・た・・・。・・・
「毛沢東年譜」はこのほか、死去2日前の様子も記載。昏睡状態から意識が戻り、秘書に「資料を見たい」と意思表示し、紙の上に「三」の字を記 した。秘書は「三木武夫首相(当時)に関する資料」だと気付き、毛沢東は秘書の助けを借り数分間にわたり読み、また昏睡に陥った。当時、日本では三木氏の 退陣を図る「三木降ろし」が起きており、日本の政界の動きに関心を持っていたことを示すエピソードとみられる。」
http://blog.goo.ne.jp/maniac_club/e/dae1c4f22736ee9e4d1cfc12b506ac6c
「最初の日本人戦犯裁判で起訴155人死刑7人執行猶予付き死刑3人が確定したが周恩来の指示で最終的に起訴51人死刑なし無期懲役なし懲役20年4人に減刑された。
あまりの寛大な処置に収容所スタッフから不満が出たが「今は分からないかも知れないが20年後、30年後に分かる。」周恩来は言ったという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5
二 日本文明は最も先進的で最も普遍的な文明・・そのことを中国共産党だけは知っている。
狩猟採集時代の人類は人間主義者だった。
日本:人間主義縄文人と人間主義的弥生人の連携。
太田コラム(ツイッター)参照。
三 日本には領域的脅威はない。
核時代
朝鮮戦争
四 幕末から冷戦の終焉まで、日本は一貫して対露抑止戦略をとってきた。(アジア解放ではない。)
横井小楠コンセンサス
政府の公式表明
終戦の決定的要因は原爆投下ではなくソ連参戦
五 日本の憲法に規範性はない。
(英国とイスラエルには憲法すらない。)
(なお、英国には三権分立はない。)
「明治十四年の政変<は、>1881年・・・に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
「明治22年(1889年)2月11日、黒田内閣のもとで大日本帝国憲法が発布される。・・・明治25年(1892年)には・・・<伊藤は>政党結成を主張するが、天皇の反対により頓挫する。・・・
明治31年(1898年)1月、第3次伊藤内閣<の時に>・・・閣議で政党結成・・・を唱えるが、山縣有朋の反対に会い首相を辞任。・・・
明治33年(1900年)9月には立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。10月に政友会のメンバーを大勢入れた第4次伊藤内閣が発足する・・・。政友会はその後・・・立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
「原敬による日本で初めての本格的な政党内閣が<1918年>9月27日組織されるに至った。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC
「憲政の常道とは、大日本帝国憲法下で一時期運用されていた、政党政治における政界の慣例のこと。
「天皇による内閣総理大臣や各国務大臣の任命(大命降下)において、衆議院での第一党となった政党の党首を内閣総理大臣とし組閣がなされるべきこと。また、その内閣が失政によって倒れたときは、組閣の命令は野党第一党の党首に下されるべきこと」とするもの。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%B8%B8%E9%81%93
なお、「一時期運用されていた」は間違い。
同じ時期の英国と比較すべき。
日本は、英国よりも「デモクラシー」的な体制を終戦まで維持した。
(日本では、「5.15事件を契機に、1932年5月、日本に挙国一致内閣が成立するに至る・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%B8%B8%E9%81%93」(コラム#4610)が、「英国<でも、>・・・「挙国一致内閣」を1931年に成立させるに至っていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%85%9A_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9)」(コラム#5600)
また、日本では、戦時中の1942年にすら総選挙が行われたが、「英国で、戦前最後に総選挙が行われたのは1935年11月で、対独戦終了後の1945年7月まで総選挙は行われ<なかっ>た。
http://www.election.demon.co.uk/geresults.html 」(コラム#7768))
六 日本は、戦後、自ら、米国の属国であり続けてきた。
幣原、吉田→外務省(と通産省(経産省))
55年体制:自由民主党(「タカ」)・日本社会党(「ハト」)
日米安保は日本保護条約。
横田空域:調布飛行場付近での墜落事故。首都圏の航空管制は米軍がやっている。
また、「米軍と自衛隊が共同で使う厚木基地(神奈川県)の周辺住民らが、騒音被害を国に訴えた訴訟の控訴審判決が30日、東京高裁であった。斎藤隆裁判長は、全国で初めて自衛隊機の深夜と早朝(午後10時~午前6時)の飛行差し止めを認めた一審・横浜地裁判決に続き、飛行の差し止めを認めた。米軍機の飛行差し止めは認めなかったが、騒音被害に対する損害賠償は、一審が認めなかった将来分まで支払いを命じた。」
http://www.asahi.com/articles/ASH767SRNH76ULOB02B.html?iref=comtop_6_01
七 中国共産党は米国が大嫌い
米国人達は阿片で大儲けしながらキリスト教を押し付けようとした。
(死刑を連発するドラッグ取り締まりの厳しさ、キリスト教等取り締まりの厳しさはそれがゆえのもの。)
本国では、差別的低賃金で中国人労働者達をこき使って大陸間横断鉄道群を建設し、用済み後は、中国人の米国への移住を禁止した。(後に日本人も禁止した。)
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5 取材
<TA>
『女性セブン』からの取材、お疲れ様でした。
参考のためお聞きしたいのですが、この記者さん、どうやって太田さんにたどり着いたと思いますか。
(それほど太田コラムを読んでいる風でもなし、平素から防衛問題に関心がある風でもなし・・。
ウィキペディアの「Category:日本の防衛官僚」
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%AE%98%E5%83%9A
あたりから探して絨毯爆撃的にメールを送りまくったのでしょうか?)
<太田>
同じ編集部内の人が教えてくれたと言ってましたね。
(続く)
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–英東インド会社(その3)–
⇒こんな短い期間、巨額の国富が国外に持ち出されただけでもムガール帝国が亡んだのですから、2世紀以上にわたって、英国がインドを継続的に大収奪し、その国富を英国に持ち出し続けた結果が、独立時点におけるインドの惨状であったことは当然でしょうね。(太田)
(3)英東インド会社の「国家」への変貌
「1765年7月、当時若きムガール皇帝であったシャー・アーラム(Shah Alam)<(注10)>は、デリーから逃走し、東インド会社の諸部隊によって敗北させられ、我々が今なら非自発的民営化とでも呼ぶところのものを強制的に飲まされた。
(注10)1728~1808年。皇帝:1759~1808年。「1764年10月23日、<ムガール帝国>軍はビハールとアワドの州境にあるブクサール(バクサルとも)で、<英>東インド会社の軍と会戦した(ブクサールの戦い)。だが、・・・戦いは一日で終結し、結果は<英国>の圧勝で終わり、連合軍は大敗を喫した。・・・翌1765年8月16日に・・・アラーハーバード条約<が>締結<され>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%A02%E4%B8%96
<交わされた>文書(scroll)<の中身>は、彼自身のムガール帝国のベンガル、ビハール(Bihar)<(注11)>、及び、オリッサ(Orissa)<(注12)>における歳入諸官吏を解雇し、彼らを、今やベンガルの新総督となったロバート・クライヴ、及び、EICの取締役達、によって任命された、一揃いのイギリス人交易者達(traders)で置き換えよ、という命令だった。・・・
(注11)地図。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B7%9E#/media/File:Bihar_in_India_(disputed_hatched).svg
(注12)地図。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B5%E5%B7%9E#/media/File:Orissa_in_India_(disputed_hatched).svg
まさにこの瞬間に、諸絹及び諸香料の交易を行うところの、東インド会社(EIC)は在来的な企業であることを止め、何かはるかに、より普通でないものになったのだ。
数年のうちに、インドでリクルートされたインド人兵士達20,000人の軍事力と相俟って、250名の会社事務員(clerk)達がベンガルの事実上の統治者達となった。
一国際企業が自らを攻撃的な植民地権力へと変貌しつつあった。
会社の急速に大きくなりつつあった治安部隊・・その軍隊は1803年には260,000人へと大きくなっていた・・を用いて、会社は、速やかに、インド亜大陸全体を従え、奪取した。
驚くべきことに、それには半世紀もかからなかった。
最初の顕著な領域的諸征服は、ベンガルにをいて、1756年に起こった。
すなわち、47年後、この会社圏(reach)は、実に、ムガール帝国の首都のデリー、及び、この都市より南のインドの殆んど全てが、その時点までに、ロンドンのシティーの取締役会室から事実上統治されるに至った。・・・
我々は、いまだに、英国によるインドの征服について語っているけれど、このような文句は、より邪悪な現実を隠蔽するものだ。
18世紀末にインドを奪取したのは、英国政府ではなく、危険なまでに規制されていない、ロンドンの5つしか窓のない小さな事務所に本部があって、インドでは精神が不安定な社会病質者たるクライヴによって管理されていたところの、一民間会社だったのだから・・。・・・」(A)
「・・・この好都合な瞬間において、<インド亜大陸の>殆んど全ての諸王国は、EIC/大英帝国に友好的であるか、それに反対しているか、のどちらかだった。
反対している諸王国は、大英帝国、及び、ニザーム王国(Nizam)<(注13)>とその他のネイボッブ(Nabob)<(注14)>達といった友好的な諸王国、の双方の隷下の諸軍によって戦闘を仕掛けられた
(注13)Nizam of Hyderabad/Nizam Dominion、或いはハイダラーバード王国(Haiderabad State)。「インド、デカン地方に存在したイスラーム王朝(1724年~1948年)。 首都はアウランガーバード、ハイダラーバード。・・・<インドの藩王国中>ニザーム藩王国の領土面積はインド最大であった。また、<英国>が定めた藩王国の序列の筆頭に位置づけられ<ていた。>・・・
ニザーム<王国の国王は、>マラーターの脅威を除くために・・・<英国>の従属国、つまり藩王国としての存続を図る道<を選び、>1798年9月1日、ニザーム王国と<英国>との間に軍事保護条約が結ばれた。この条約では、王国に駐留する<英>軍の大幅増員およびそれに支払う駐留費の負担増額、フランス人主体の精鋭部隊を解散し、すべてのフランス人将兵の解雇を約した。こうして、ニザーム王国は<英国>に従属する、いわゆる藩王国の立場に落とされた・・・内政権は<英国>から保証されていたが、実際には藩王国に置かれたイギリス人の駐在官による内政干渉が日常化して<いた。>・・・
<インドとパキスタンの分離独立後、この>藩王国の貴族や官吏、警察、軍の高官らの多くはムスリムであった一方で、住民の大多数はヒンドゥー教徒であ<ったところ、>・・・単独で独立を宣言した。インド政府はパキスタンと国境を接するジャンムー・カシミール藩王国の確保を優先していたため、同年11月にニザーム藩王国はインドとひとまず「現状維持」の暫定協定を結んだ<が、>・・・1948年9月13日から17日にかけてのポロ作戦でインドに併合された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%A0%E7%8E%8B%E5%9B%BD
(注14)ダリンプルは、ここは、ネイボッブではなく、ナワーブ(Nawab)と表記すべきだった。
「ナワーブの語はムガル帝国における各地の地方長官の称号であるが、この語は18世紀以降に普及した語であり、それまではスーバダールと呼ばれていた。18世紀以降、帝国の支配から独立したアワド太守、ベンガル太守、カルナータカ太守はこのナワーブの称号を持った。なお、帝国の衰退に伴って各地のムスリム領主もまた、それぞれがナワーブの称号を使用した。その例としては、バハーワルプル、ボーパール、ジューナーガドなどが挙げられる。<英国>統治下では、ナワーブは藩王の称号の一つであり、ニザームやマハーラージャと同様に使われた。なお、インドで富をなしたイギリス人はネイボッブと呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%96
なお、「ネイボッブ(nabob)は、<英国>のインド成金。<英>東インド会社統治下のインドで巨富を築き、本国に帰還した者の中でも、特にインド風生活に染まりきった者を指した。ベンガル地方のムスリム貴族ナワーブ (nawab) に由来する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%96
インドの諸王国は、インドとして知られた世界たる、一つの極めて大きな国の一部であるという事実を認識することは決してなかった。
彼らは、今日の諸国家ととてもよく似ていて、互いに、統治し、角突き合わせていたのだ。
諸言語、文化、諸習慣、その他がそれぞれ異なっていた、ということもある。・・・」(B)
⇒これは、ちょっとおかしい主張です。
少なくともムガール帝国の全盛期には、(南端を除く)全インド亜大陸が一つの国であるという意識が支配層にはあったに違いないところ、この国の最大の弱点は、支配層がイスラム教徒、被支配層が(広義の)ヒンドゥー教徒であった上に、ヒンドゥー教徒は更にカーストによって分断されており、国民としての一体性に乏しかったことでしょう。
(この他にも主要宗教としてシーク教がありますが、捨象します。)
(そこにもってきて、ナーディル・シャーによる国富大簒奪があったわけです。)
かつてマウリヤ朝を崩壊させたのは仏教でしたが、ムガール帝国を最終的に崩壊させたのもイスラム教とヒンドゥー教がらみの宗教問題であった、というのが私の見解です。(太田)
(続く)
意外な取材(その2)/英東インド会社(その3)
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