太田述正コラム#7822(2015.8.1)
<英東インド会社(その4)>(2015.11.16公開)
 「・・・この種の諸企業全てと同様、当時も今も、東インド会社はその株主達にだけ答責した。
⇒株式会社という制度自体が野蛮である、という認識を、我々は持つべきでしょう。
 株主達を、いわば業績連動利子の社債保有者扱いをして、彼らに答責でないところの、理念型としての日本型企業は、それとは対蹠的な文明的制度であるわけですが、株式会社制度が全球的標準になってしまっている現在、株式会社を装わなければならないところが、日本型企業の悩ましい点です。(太田)
 この<ベンガル>地域の正義にかなった(just)統治(governance)、或いは、この地域の長期的福祉(wellbeing)に何の関心もなかった(with no stake)この会社の統治(rule)は、直ちに、ベンガルの、文字通りの(straightforward)略奪(governance)、及び、その富の西方への迅速なる移転、へと転化した。
 やがて、既に戦争によって荒廃していたこの州は、1769年の飢饉<(注15)>によって打ち倒され、次いで、重税によって更に目茶目茶にされた。
 (注15)1769~1773年の大飢饉。1000万人が死亡し、東インド会社統治下のベンガル(含ビハール、及び、オディシャ(Odisha)の一部)の人口は3000万人へと減少した。その原因は、同社が、清に輸出するために阿片を強制栽培させ、その分、穀物生産が減少したため。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bengal_famine_of_1770
⇒この時期の、イギリスの海外一発ぼろ儲け狙いの連中は、北米のインディアンであれインド亜大陸のインド人であれ、(そして、支那の漢人であれ、)虫けらとしか思っていなかった、ということです。(太田)
 会社の徴税人達は、今日であれば人権諸侵害と描写されるであろうところの罪を犯した。
 ベンガルにおける古いムガール帝国体制のある高級官僚は、その諸日記に次のように記した。
 「インド人達は、自分達の宝を開示せよと拷問にかけられ、町々や村々は漁り回られ、諸ジャグハイアー(jaghires)<(注16)>と諸州は盗まれた。
 (注16)インドにおいて、特定の人ないし団体に歳入を割り当てられた地区。
http://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/jaghire
 まさに、これらは、<東インド会社の>取締役達と彼らの召使達にとって、「諸喜び」であり、かつ、「諸宗教」なのだった。
 ベンガルの富は、迅速に英国に向けて排出され、その繁栄していた織り手達と工芸家達は、彼らの新しい主人達によって、「かくも大勢の奴隷達がそうであったように、」抑圧(coerce)され、そして、その諸市場は英国の諸製品によって溢れかえった。
 ベンガルから強奪されたものの一部は、直接クライヴの懐に入った。
 彼は、英国に、当時234,000ポンドと秤量されたところの、個人的財産と共に帰国し、それは、彼をして、欧州で自力で叩き上げた人物としては最も金持ちへと仕立て上げた。
 軍事的な強さ(prowess)というよりは、裏切り、偽造諸契約、銀行家達と諸賄賂、に負った勝利であったところの、1757年のプラッシーの戦い(Battle of Plassey)<(注17)>の後、彼は、今日の通貨ではクライヴに2300万ポンド、そして会社に2億5000万ポンドに相当するところの、敗北したベンガルの統治者達から奪取した、少なくとも250万ポンドを、東インド会社に移転した。・・・
 (注17)「ベンガル地方の村プラッシーにおいて、 <英>東インド会社の軍とベンガル<のナワーブ>と後援する<仏>東インド会社の連合軍との間で行われた戦い。この戦いは七年戦争とも関係し、<英仏>間の植民地を巡る戦いの1つでもあった。また、この戦いを機にベンガル<のナワーブ>は<英国>に従属していくようになり、徐々に傀儡化していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 それは、インドが全球的製造業の4分の1前後を占めていた時代だった。
 対照的に、その時の英国は全球的GDPに2%未満しか貢献しておらず、東インド会社は余りにも小さく、まだ、その総裁のサー・トマス・スミス(Sir Thomas Smythe)<(注18)>の、スタッフがわずか6人の自宅から運営されていた。
 (注18)1558~1625年。イギリスの商人、政治家、植民地行政官。東インド会社の初代総裁にして、ヴァージニア会社の財務担当者(treasurer)。パブリックスクールのMerchant Taylors’ School卒。
https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Smythe
https://en.wikipedia.org/wiki/Merchant_Taylors%27_School,_Northwood
 しかし、それは、既に、大型帆船(tall ship)群を所有し、テームズ河畔のデットフォード(Deptford)<(注19)>に、自身の造船所を持っていた。・・・」(A)
 (注19)現在の南東部ロンドンに位置する。
https://en.wikipedia.org/wiki/Deptford
 1607年から1644年まで存在。絵が載っている。↓
http://collections.rmg.co.uk/collections/objects/13352.html
 (4)英東インド会社と英国政府
 「・・・それが都合のよい場合には、東インド会社は、会社と政府との法的分離を活用した。
 同社は、強硬、かつ、成功裏に、シャー・アーラムによって署名されたところの、ディワニ(Diwani)として知られている文書は、東インド会社のインドにおける諸取得物を守る海上及び陸上での軍事諸作戦のために政府が巨額を費消していたにもかかわらず、王室のではなく会社の法的財産である、と主張した。
 しかし、この法的区別を認める票を投じた国会議員達は、必ずしも中立的立場ではなかった。
 というのも、彼らのうちの4分の1近くがこの会社の株を保有しており、王室が<会社を>強制収容したならば、株は暴落しただろうからだ。
 同じ理由で、この会社を外国の競争から守る必要性もまた、英国の外交政策の主要な狙いの一つになった。・・・」(A)
(続く)