太田述正コラム#7830(2015.8.5)
<戦中の英領インド(その2)>(2015.11.20公開)
 (2)序
 「第二次世界大戦で斃れた人々への最もよく知られた記念碑群の一つは、最も訪れられることの少ないものでもある。
 それは、<インドの>ナガランド(Nagaland)のコヒマ(Kohima)にある、灰色の墓石の上の単純な白色の十字架だ。
 その墓碑銘は、簡約した悲痛な4行連句だ。
 君が故郷(home)に戻ったら
 我々のことを彼らに伝えて言え
 君達の未来のために
 我々は今日を与えたと
 しかし、故郷とは、一体どこのことなのか?
 彼らとは、一体誰のことなのか?
 我々とは、一体誰のことなのか?
 東部インドの涼しく湿った丘々への旅に行けた者の大部分にとっては、それらへの答えは簡単だ。
 故郷はイギリスであり、彼らはイギリス人であり、また、我々は、そう、我々はイギリス人であり、かつ、この場合は、王立西ケント連隊の第4大隊の全滅しつつあった分遣隊の男達だった。
 わずか数百人のこれらの勇者達が、3個歩兵連隊と1個砲兵連隊からなる日本軍の1個師団全体を阻止し、副徴税官(assistant commissioner)<(注1)>のテニスコートで、銃剣対銃剣でもって、無慈悲なる6週の間、援軍が到着してこの敵を東方に帰らせるまで、彼らと戦った。
 (注1)一般には「警視正」の意味だが、検討の上、「副徴税官」と訳した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Assistant_commissioner
http://ejje.weblio.jp/content/assistant+commissioner
 コヒマのギャリソン・ヒル(Garrison Hill)<(注2)>は、東条英機の部下達(men)が到達することができた最遠点だった。
 (注2)「1944年、第二次世界大戦中に、日本軍によるインパール作戦の一環として南に位置するインパールと同時にコヒマにも進撃し、実際に佐藤幸徳陸軍中将率いる日本軍第31師団はコヒマを制圧した。しかし連合軍の抵抗は頑強であり、その上連合軍の強力な反撃でインパール方面が瓦解し無残な状態となり、佐藤中将はあくまでコヒマに留まれという牟田口廉也陸軍中将の命令に反発し、独断でビルマ方面に撤退している。このインパール作戦が東南アジア戦線の転換点となり、アウンサン率いるビルマ軍の反乱を呼ぶなどこの方面での日本軍の優位は失われた。コヒマでの白兵戦では双方が大きな被害を出し、日本軍はインドの平野部に入るための重要な高地を制圧できなかった。テニスコートの戦いで知られるコヒマの激戦地「ギャリソン・ヒル」の斜面には現在、これらの戦いで命を落とした<英>連邦出身者など連合軍兵士の大きな墓地がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%92%E3%83%9E
 彼らの退却は、この戦争の転換点、すなわち、英国のミッドウェー、イギリスのスターリングラード、になった。
⇒最後まで読めば分かりますが、このような書評子の受け止め方・・それは、日本人を含め、インパール作戦の通説的受け止め方でもある・・は間違いです。
 インド国民軍が参加した形でインパール作戦が発動され、インド領内に突入した時点で、日本側は、作戦目的、すなわち、インドの英国支配からの解放、を達成していたからです。
 日本側は、その時点で、本作戦に勝利していた、ということです。(太田)
 この戦いは、大英帝国、武勇、彼そして他の全ての英国の戦闘員達を最終的な勝利へと導いたところの、トミー・アトキンス(Tommy Atkins)<(注3)>、及び、筋骨隆々で、パイプを燻らせる、パブリックスクール出身者達の全ての長所、の絶頂(high-water mark)だった。
 (注3)トミー(Tommy)。英陸軍兵士の俗称。1743年に最初の使用例がある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Tommy_Atkins
 しかし、・・・英国人は、この戦いを含む多くの戦いにおいてごく小さい部分を占めるだけだった。
 コヒマでは、大部分の戦いと死は、英印軍の兵士達によるものだった。
 それは、何千マイルも離れた、ロンドン、ベルリン、東京、及び、モスクワ、ローマ、そして、ワシントンで醸成された諸議論・・ヒンドゥー教徒達、イスラム教徒達、及び、パルシー教徒(Parsi)<(コラム#4659)>達が何の役割も果たさなかった諸議論・・の決着を付けるために、その諸身体が壊されたところの、パンジャブ及び辺境地域(Frontier)<(注4)>出身の茶色の肌をした村人達だった。
 (注4)North-West Frontier Provinceのことだと思われる。
 当時のパンジャブ州、そして、インド亜大陸分割独立後のパキスタンのパンジャブ州の北西に位置していた細長い地域で、主としてパシュトン人が住んでいた。1901~55年の間存続。
https://en.wikipedia.org/wiki/North-West_Frontier_Province_(1901%E2%80%9355)
 いや、肌の色はこのゲームとは関係ない、と彼らは言うかもしれない。
 言語に絶する、ガロン単位で量られる血だけだと。
 そして、彼らは極めてそれを望み、極めてまっすぐであり、また、べらぼうに我々に忠実だった、と思わないか。・・・」(E)
(続く)