太田述正コラム#7844(2015.8.12)
<戦中の英領インド(その5)>(2015.11.27公開)
(5)ある英雄的女性
「・・・この英雄達のいない叙事詩の最もカリスマ的な主人公達の一人がアルーナ・アサフ・アリー(Aruna Asaf Ali)<(注11)>だ。
(注11)1909~96年。インドの独立運動家で、「インドを去れ運動」中にボンベイの中心部の公園にインド国民会議旗を掲揚したことで有名。ラホールの聖心修道院で教育を受ける。彼女はバラモンたるヒンドゥー教徒だが、夫は21歳年上のイスラム教徒(英リンカーン法曹院卒で独立インドの初代駐米大使になる)だった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Aruna_Asaf_Ali
https://en.wikipedia.org/wiki/Asaf_Ali (()内)
煮え切らない(ambivalent)弁護士の夫の投獄中・・彼は自分の妻の危険な諸追求についてびっくり仰天しながら耳にしていた・・に、インド中で叛乱と転覆活動を説いて回っていた。
しかし、戦争が終わると、彼は、インド国民軍の叛乱者達の弁護にあたった。
彼らは、スバス・チャンドラ・ボースの指導の下、日本を支援したものだ。
ネールを含めた他の多くの人々同様、彼は、インド国民軍のメンバー達が、インドとその自由の大義に奉仕したし、引き続き奉仕し続けることを信じていた。・・・」(D)
(6)総括
「カーンの物語の核心に真にあるものは、1942年より後の日本の東方からの圧力の下でインド(state)がつぶれた(buckled)ことによる、英領インド当局の道徳的崩壊だ。
シンガポールの陥落とインドの地で露呈した突然の脆弱性は、インド的聖域という幻想を打ち砕いた。
しかし、その後に起こったものは、更に腐食的だった。
日本による強奪(seizure)を恐れ、当局は、ベンガル州の米と諸舟艇の巨大な在庫を徴発ないし破壊することによって、それにひき続く年の悪名高き飢饉を悪化させた。
約600,000人のインド人達がビルマから逃れ、うち、80,000人は彼らの目的地に到着することはついになかった。
不適切な英国の対応に対するガンディーの怒りは、避難の間の<地理的意味での>欧州人達に与えられた優先的取扱いによって、より研ぎ澄まされた。
これらの諸失敗は、英領インド当局が行政的能力(competence)があるとの主張に永続的な損傷を与えた。
この本は、もう一種類の蹉跌(dislocation)を指摘する。
それは、その最も有名な諸任務が、蒋介石の中国国民党軍に対する、ヒマラヤ山脈の東端を航空操縦士達がそう呼んだところの「背こぶを超えて(over the hump)」、かつ、ビルマを縦貫して彼らが建設した「スティルウェル・ロード(Stilwell Road)」経由での、援助物資を供給することであった、インドに溢れかえった米軍がもたらしたものだった。
「米軍兵士達(GIs)の購買力と超英雄的偉業(stature)」は、英領インド当局を「化石化し、かつ、矮小化した」存在に見せたことをカーンは示唆する。・・・」(A)
「この二つの諸本は重要だ。
なぜなら、それらは、より古い諸世代の間での膨れ上がった神話・・イギリス人が彼らの勇敢さに敬意を抱きつつも、現実には、英国に統治されていることをかくも誇りに思っていて、我々を愛するが故に、戦争に赴き、必要とあらば戦闘へと落下傘なしに飛び降りるという、彼らの去勢牛的愚かさ(stupidity)、を軽蔑していたところの、背筋がしゃんとした(stiff-spined)シーク教徒やパタン人達(Pathans)<(注12)>、グルカ達、そしてラージプート達(Rajputs)<(注13)>、という勇ましい(martial)何百万人、という神話・・に穴を開けてしぼませることに成功しているからだ。
(注12)(現在パキスタンの)パンジャブ州及び(現在の)北インドに定住したパシュトン人。
https://en.wikipedia.org/wiki/Pathans_of_Punjab
(注13)「ラージプート(・・・Rajput)は、サンスクリット語のラージャプトラ(王子の意味)からきた言葉で、インド正統的な戦士集団クシャトリヤの子孫であることを意味する。この社会集団の起源は明らかではないが、5~6世紀頃、中央アジアから繰り返し侵入してきた、イラン系ともテュルク系ともいわれる騎馬遊牧民エフタル(中国名白匈奴)などの外来の諸民族が、在地の旧支配層と融合し、徐々にヒンドゥー教の教義を信奉しつつ、その社会体制に組み込まれたものではないかという説、また、土着の部族のほかに、ハルシャ・ヴァルダナ以降インドに定着したスキタイ系やフン系の民族に由来するとか、北インドを支配した領主層には、クシャトリアの家系だけでなく、バラモンやヴァイシャの家系に属する者がいて、ラージプトラと呼ばれて、全てクシャトリヤの地位を与えられるようになった、など諸説ある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%88
「ハルシャ・ヴァルダナ(Harsha Vardhana, 590年~647年)は、古代北インド最後の統一王朝であるヴァルダナ朝の大王(在位:606年~647年)。・・・グプタ朝滅亡後の混乱のうちにあった北インドを統一した・・・。・・・
王は当初・・・ヒンドゥー教徒であったが、のちに自ら仏教を主題とする戯曲を著すなど仏教に・・・帰依して教団に惜しみない援助をあたえた。当時はヒンドゥー教の隆盛がみられた一方、仏教は教義の研究が中心となり、大衆から遊離したため教勢は全体として衰退していた。・・・
634年ころ、<南インドを征服すべく、>大軍を派遣したものの南北インドの境・・・で破れたため、・・・かなわなかった。・・・
善政をしき、一代で北インドにグプタ朝的秩序を回復した。<玄奘著の>『大唐西域記』・・・は、30年近くも戦争が起こらず、政教和平であると記している。・・・
<また、>1年に一度諸国の学僧を集めて広く議論を興し、5年に一度「無遮大会」とよばれる聖俗貴賤を問わない布施の行事を催すなど、仏教に対する信奉も篤いものであった。・・・
「無遮大会」は、・・・金銀、真珠、紅玻璃、大青珠などの多くの貴石、宝石さえ準備され、王の装身具や衣服までもが施されて、大会が終わると国庫が空になるほどの徹底した喜捨であった。それを見かねた地方領主は、王の装身具を買い戻して差し出したとつたわる・・・
647年、ハルシャ王が後継者を残さずに没すると、王国は再び急速に分裂していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%8A
マウリア朝のアショーカ王の事跡を縮小再生産したようなヴァルダナの事跡だ。
仏教は、こうして、インド亜大陸に、内生的な統一国家を確立、維持させることを、完全かつ最終的に不可能にした、というわけだ。
(続く)
戦中の英領インド(その5)
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