太田述正コラム#8059(2015.11.28)
<皆さんとディスカッション(続x2825)>
<太田>(ツイッターより)
 「…世界的な過剰供給やドル高、中国の景気減速を理由に今年の原油価格が20ドルを下回る可能性がある…」
http://www.msn.com/ja-jp/news/money/%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%82%b0%e3%83%ab%ef%bd%8f%ef%bd%90%ef%bd%85%ef%bd%83%e3%80%81%e5%8e%9f%e6%b2%b920%e3%83%89%e3%83%ab%e5%8f%b0%e3%81%ae%e6%87%b8%e5%bf%b5%e3%81%ab%e3%82%82%e6%96%b9%e9%87%9d%e5%a4%89%e6%9b%b4%e3%81%ae%e6%b0%97%e9%85%8d%e3%81%aa%e3%81%97/ar-AAfIyhk?ocid=iehp#page=2
 数年下がったままになって露やサウジが体制崩壊してくれると、露の拡張主義とイスラム原理主義にとどめをさせて世界が明るくなるんだけどな。
<太田>
 それでは、その他の記事の紹介です。
 醤油にも使えそうだが、醤油を瓶詰にしてくれなきゃな。↓
 「開けた日本酒の瓶、空気抜いて酸化防止 セーバー発売へ・・・」
http://www.asahi.com/articles/ASHCT544QHCTOIPE01J.html?iref=comtop_list_biz_n03
 本来、有料読者向けコラムの題材(書評)だが、本日、材料に乏しいので、紹介しておきます。↓
 <書評対象の本の著者は、エール大卒、ベニントン大修士のヴァージニア大英語学科教授で、専攻は19世紀米英の詩・浪漫主義、という人物。↓>
http://www.engl.virginia.edu/people/mwe
‘Self and Soul’: Mark Edmundson’s biting critique of modern complacency・・・
 <米国人は、実際的かつ矮小となり、目先の利益だけを追いかける存在となり、英雄的/高貴な「生活」はビデオゲームや映画鑑賞まかせ。↓>
 ・・・Americans have become, Edmundson says, wholly pragmatic and small-minded, always on the lookout for the main chance and conditioned to be greedy for the gaudy trash supplied by our consumerist overlords. We move restlessly from want to want, never discovering any lasting satisfaction. As for living heroic or noble lives, our video games and movies do that for us. ・・・
 <また、軍事的諸徳は蔑まれるに至った。
 (確かに、かつてのアメちゃんは、一獲千金のために銃を振り回すことを厭わなかったからねえ。(太田))↓>
 Today, Edmundson says, any commitment to military virtues is disdained “by middle-class men and women whose central aspiration is to endure and who seek not honor but respect, not ascendancy but stable existence.”・・・
 <アキレウスも釈迦も安全でうらやましい生活に反逆し、自身および家族の「幸福」を擲ち、世界を変革しようとした。
 (アキレウスは神話中の「人物」、釈迦は実在した人物だよーん。(太田))↓>
 Both Achilles and Gautama, who became the Buddha, “rebel against a safe predictable life — the kind of life we associate with the prudent Self. Both act against their own ‘happiness’ and the happiness of their families. Both go off to transform the world.”・・・
 <生きているだけでは苦から逃れられないとして、釈迦は普遍的同情心を教えた。孔子は仁(compassion)を唱え、イエスは隣人への愛を説教した。
 (以上の釈迦の要約紹介はツボをはずしているし、そもそも、この3人中、農業社会到来に伴う人間の堕落に対する正しい処方箋を書いたのは釈迦のみ。(太田))↓>
 Recognizing that merely being alive brings suffering, the Buddha teaches universal compassion. In like manner, Confucius espouses benevolence, and Jesus preaches love of one’s neighbor. Nonetheless, in today’s capitalist society, “the ideal of a brotherhood and sisterhood among all is now commonly understood to be an absurdity. We are all in it for ourselves and for no one else.”・・・
 <ソクラテスも真理の追求を唱えた点で、イイ線を行っている。
 真理は常識(confromity)を覆し権力者を脅かすとともに、場合によっては平和を乱すこともある。↓>
 ・・・can Socrates be far behind? Edmundson stresses that a thinking life should be focused on seeking the truth, sometimes on being a disturber of the peace. One must resist the blandishments of conformity, as well as the threats of those in power. Otherwise, the mind could end up a slave to the trivial, set to sweating over account books or to outwitting our business competitors. ・・・
 <以上のようなことにケチをつけた元凶が2人いる。
 まずは、世俗性の大詩人たるシェークスピアだ。
 (こいつは面白い指摘であるぞな。(太田))↓>
 The second half of “Self and Soul” examines the two immensely influential writers who have done the most to destroy faith in ideals. The first is — surprise! — William Shakespeare, “the first great secularist; the first authentic renderer of the marketplace philosophy, pragmatism, and the primary artist of life lived exclusively in the sublunary sphere.” He is, in fact, the poet of worldliness.・・・
 <これに対し、浪漫主義の時代の詩人達たるブレーク、キーツ、シェリーらは、恋愛の変革力を理想視して異議申し立てを行った。
 (そんなの、(同性愛だったけど、)プラトンの二番煎じだろが。(太田))↓>
 In the Romantic era, poets such as Blake, Keats and Shelley did promulgate a new ideal: the transformative power of erotic love. Its energy can allow us to transcend our usual impulses toward hogging and hoarding. Not that love brings everlasting bliss — that is a delusion of the Self. “Love that is taken up fully into the imagination propels the individual forward to more work and more works. True love does not rest in complacency.”・・・
 <それを再度叩き潰したのがフロイドだ。彼は、恋情になど煩わされる意味はないのであって、施療を受けることによって温い不快感のうちに生きるようにならなければならない、とした。
 (こいつも、まあまあ、面白い指摘だわな。(太田))↓>
 To Freud, the second great enemy of idealism, romantic passion simply isn’t worth the suffering. In reality, he claims, the best we can hope for out of life is an ongoing feeling of mild unpleasantness. Therapy merely transforms hysterical misery into common, everyday unhappiness — for which we should be grateful. ・・・
https://www.washingtonpost.com/entertainment/books/self-and-soul-mark-edmundsons-biting-critique-of-modern-complacency/2015/11/24/63c3d594-8fbb-11e5-baf4-bdf37355da0c_story.html
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 一人題名のない音楽会です。
 悪夢の音楽の4回目です。
Handel(注a) Semele(1743年)(注b)
 Semele (soprano) – Rosemary Joshua
 Iris (soprano) – Gail Pearson
 Ino/Juno (contralto) – Hilary Summers
 Athamus (countertenor) – Stephen Wallace
 Jupiter/Apollo (tenor) – Richard Croft
 Cadmus/Somnus (bass) – Brindley Sherratt
 Early Opera Company 指揮:Christian Curnyn
https://www.youtube.com/watch?v=NqHe4FAKYhI
(注a)「ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Handel, 1685年2月23日 – 1759年4月14日)は、ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家。バロック期を代表する重要な作曲家の一人。・・・
 1710年にハノーファー選帝侯の宮廷楽長となったが、宮廷楽長の地位はそのままに1712年にはロンドンに移住し、1727年には正式に帰化した(1714年のイギリスのアン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになる)・・・
 彼は生涯の約3分の2をイギリスで過ごしており、イギリスでの活動歴が圧倒的に長いことから、英語名でジョージ・フリデリック・ハンデル(ハンドル、ヘンドル、George Frideric Handel)と呼び、イギリスの作曲家として扱うべきとする意見もある(少なくともイギリスではそのように扱われている)が、日本ではもっぱらドイツ名で知られ、ドイツの作曲家として扱われるのが通例である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB
(注b)Semele (or The Wrath of Juno)(セメレー(ユーノーの怒り))。ギリシャ神話の神ディオニューソスの母親セメレーを主人公にしたオペラ。
 聖書ではなくギリシャ神話を題材にし、かつ、イタリア語ではなく英語の歌詞であった、ことから、ロンドンで1744年に6回公演が行われてから、長らく忘れられたが、1925年と54年にイギリスで改めて演じられ、爾来、しばしば演じられるに至っている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Semele_(Handel)
 セメレーは、「テーバイの王・・・の娘・・・ゼウスは密かに人間の姿をとってセメレーと交わり、セメレーは身重となった。このことを聞きつけた<ゼウスの妻>ヘーラーは、嫉妬心を燃やした。ヘーラーはセメレーのかつての乳母であった老婆に身をやつし、セメレーに近づいてこうそそのかした。「あなたの交際相手は、本当は恐ろしい化け物かもしれない。怪しいと思ったら、本当の身分を明かすように言いなさい」。セメレーはこの忠告に従い、ゼウスに「愛の証に私の願いを一つ聞いてほしい」と持ちかける。ゼウスが「ステュクス川に誓って必ず叶える」と約束すると、セメレーはゼウスに真の姿を見せるよう迫った。雷火をまとった神の本性を現せば、生身の人間の体では耐えきれず、たちどころに焼け死んでしまう。ゼウスは約束したことを後悔したが、ステュクス川にかけた誓いは神といえど背けない絶対的なものであった。ゼウスは変身を解いたが、セメレーはまばゆい灼熱の閃光に焼かれて絶命した。・・・セメレーの胎児はヘルメースが取り上げ、ゼウスの大腿のなかに縫い込んだ。この時胎児は6ヶ月であり、さらに3ヶ月後に誕生したのがディオニューソスである。ディオニューソスは、このために「二度生まれた者」「二つの門の子」などと呼ばれる。古代ギリシアの地にディオニューソスの信仰が確立され、神の座を占めるようになったとき、彼はレルネーの底なし沼を通ってタルタロスに下った。ディオニューソスは、ギンバイカの木をペルセポネーに贈り、これと引き替えに母親のセメレーを連れ戻した。ディオニューソスから神性を分け与えられたセメレーは女神となった。セメレーはトロイゼーンのアルテミスの神殿に入り、そこから天に昇った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%A1%E3%83%AC%E3%83%BC
 ヘーラーは、「ローマ神話においてはユーノー(ジュノー)と同一視された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC
(続く)
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太田述正コラム#8060(2015.11.28)
<西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その3)>
→非公開