太田述正コラム#7848(2015.8.14)
<戦中の英領インド(その7)>(2015.11.29公開)
本シリーズは、コメントを余り差し挟みませんでしたが、著者のカーンや書評子達の言に殆んど違和感を覚えなかったからです。
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[参考:二つの挿話を通じて見るインドとパキスタン]
一、初めに
たまたま、このシリーズ執筆中に遭遇した、2人のインド亜大陸人の家庭生活を通じて、分裂独立したところの、インドとパキスタンの違いをさぐってみた。
二、アサフ・アリーの家庭生活
アサフ・アリー(1888~1953年)は、イスラム教徒だが、ヒンドゥー教徒たる21歳年長下のアルーナ(1909~96年)と結婚したところ、双方のウィキペディアに言及がないが、恐らく、それぞれ、自分の宗教を維持したものと推察される。
アリーは、1935年に、独立前の中央立法議会(Central Legislative Assembly)のデリー選挙区で国民会議派に属し、ジンナー率いるムスリム同盟の候補と戦って勝利している点に端的に表れているように、イスラム教徒とヒンドゥー教徒等の共存を、あたかも自分達の家庭のように追求した、と考えられる。
独立インドは、そんなアリーを初代駐米大使、帰国後はオディシャ州知事等の重職に任命している。
この夫妻には子供がいなかったようだが、いたとして、一体、イスラム教徒とヒンドゥー教徒のどちらになっていたのか、また、何教徒と結婚していたのか、知りたいところだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Asaf_Ali 前掲
https://en.wikipedia.org/wiki/Aruna_Asaf_Ali 前掲
三、ムハンマド・アリー・ジンナーの家庭生活
まず、以下に目を通されたい。
「・・・<死の床についていた、ジンナーの妻たる>彼女<(マリヤム(Maryam))>が彼に送った最後の手紙はこうだ。
「私がまさにそうですが、人が人生の真実、つまりは死・・に近づくと、美しい、或いは、睦み合った(tender)諸瞬間だけが記憶に蘇り、残りの全ては非現実的で半ばベールを掛けたようなもやに包まれてしまいます。
あなたが踏みつけた花ではなく、あなたが愛して摘んだ花の私を思い出すように心掛けてください。・・・
ダーリン、あなたを愛しているわ。あなたを愛しているわ。
もし、私があなたをもうちょっとだけ愛していなかったなら、あなたと一緒におれたかもしれないわね。
もう少し私がとっても美しい花になっておれば、あなたは私を泥濘の中で引きずるようなことはしなかったと思うの。
あなたが理想を高く掲げれば掲げるほど、花は落ちてしまうの。
私は、ダーリン、あなたを愛してきたのよ。
そんなに女に愛された男は、この世に殆んどいなかったはず。
私のたった一つのお願いは、愛とともに始まった悲劇が、愛とともに幕を下ろすこと。・・・」
ジンナーは、とても孤独を好む人物と信じられており、諸感情を殆んど示さなかったが、他人の前で2度だけ泣いたことで知られている。
一回は、彼の愛妻のラッティー(Ruttie)が1929年に亡くなった葬儀の時であり、もう一回は、1947年に、パキスタンに向けて出立する前に最後に彼女の墓を訪れた時だった。
ジンナーは、インドを1947年8月に去り、二度と戻ることはなかった。・・・
ジンナー夫人の死から12年を若干超えたある時、ご主人様<(ジンナー)>は、真夜中に巨大な古い木製の蓋付の箱を開けるように命じた。
その中には、彼の亡妻と彼の嫁いだ<一人>娘の衣類群が収納されていた。
彼は、この箱から取り出され、絨毯の上に広げた、これらの衣類群を凝視した。
彼は、人の心を動かすような沈黙のうちに、それらを長い間見つめた。
そして、彼は涙を浮かべた。・・・」
https://en.wikipedia.org/wiki/Maryam_Jinnah
さて、ジンナー家の先祖はヒンドゥー教徒であったところ、イスラム教徒たるジンナー(1876~1948年)は、青年期に見合い結婚をさせられ、2年後、彼の英国滞在中にインドに残っていたその妻が亡くなってから独身を通していたが、その彼が、10数年後に出会ったのが、23歳年下の当時16歳の美女でボンベイの花と謳われたマリヤム(1900~29年)だった。
パルシー教徒(ゾロアスター教徒)であった彼女の両親がイスラム教徒・・彼らをイランで迫害したために、パルシー教徒はインド亜大陸にまで逃げてきた、という経緯あり(太田)・・との結婚を許さなかったため、ジンナーは、マリヤムが、自分の意思で結婚できる18歳になるまで待って、1918年にイスラム教に改宗した彼女と結婚。
https://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad_Ali_Jinnah
これを契機に、彼女は、両親及びインド亜大陸のパルシー教社会から絶交される。
ジンナーは独立運動に東奔西走しており、マリヤム・・彼女自身も熱烈なインド独立論者だったが・・は、一人にされていることが多く、さびしい結婚生活が続いた。
結婚翌年の1919年に一人娘のディーナ(Dina)をもうけていたものの、マリヤムは病を得て、1929年に結婚11年目に29歳で逝去。
https://en.wikipedia.org/wiki/Maryam_Jinnah 前掲
https://en.wikipedia.org/wiki/Dina_Wadia
因果は巡るで、その2年後の1931年に、このディナが、今度は、ジンナーの反対を押し切って、パルシー教徒たるインド亜大陸人と結婚し、爾後、ジンナーは、娘と文通こそすれ、二度と会うことはなかった。
ジンナーが建国する巡りあわせとなったパキスタンは、非イスラム教徒と結婚したイスラム教徒は相続権を剥奪される法律を制定しており、1948年に行われた葬儀の時にディーナは参列すべく初めてパキスタンを訪問したが、ジンナーの遺産を(インド内のものを含め、)何一つ相続できなかった。
ディーナはまだ存命。
https://en.wikipedia.org/wiki/Dina_Wadia 前掲
四、終わりに
ジンナーは、リンカーン法曹院出のイスラム教徒であって、しかも、20歳以上年下の相手と結婚した、という点で、奇しくもアリーと瓜二つ・・年齢は、ジンナーの方が11年半年長・・だが、ジンナーのような真正イスラム教徒がパキスタンを分離独立させたのに対し、アリーのような非真正イスラム教徒はインドでヒンドゥー教徒達との共存を選び、ヒンドゥー教徒達の側も、イスラム教徒達の期待に応えた、というわけだ。
当然のことながら、パキスタンは民主主義が未成熟のまま推移することとなり、かつ、イスラム教を国教とする国家として、イスラム教の一層の真正化の道を歩むこととなり、他方、インドは最初から民主主義の成熟国として推移し、ヒンドゥー教原理主義に時に傾きつつも、基本的には世俗国家として現在に至っているところだ。
ジンナーらの罪は、余りにも重い、と言わなければなるまい。
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(完)
戦中の英領インド(その7)
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