太田述正コラム#7856(2015.8.18)
<資本主義とポスト資本主義(続)(その4)>(2015.12.3公開)
平川新<(注8)>はその著書『紛争と世論』に、「近世民衆の政治参加」という副題を付している。
(注8)あらた。1950年~。福岡県に生まれ、中卒後、工場労働者として働いてから、法政大学文学部史学科卒、東北大修士、宮城学院女子大学を経て、東北大教養部助教授時代に同大博士号取得、、同大で東北アジア研究センター所長、現在、宮城学院女子大学学長。専門は江戸時代史。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B7%9D%E6%96%B0
その理由は、「人びとが、訴願や献策や一揆などをとおして政策の提案や否定をおこなったのは、近世の民衆による政治参加の姿態を示すのではないか」と語られていることから明らかである。
民衆がおこなう日常的な訴願を、政治参加のひとつとして把握しようというのである。また、「こうした目で領主権力をとらえなおしてみると、権力は、意外なほど民意=世論の帰趨に神経を使い、対立する世論を合意に導くことに腐心していたようである。」ともいっている。
つまり、絶え間ない訴願や、それらによって形成される世論は、領主権力の公共的な性質を増大させざるをえなかったということである。・・・」(α)
⇒再び十七条憲法を持ち出しますが、既に引用した諸条文に加えて、「六にいう。悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。・・・」、「七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない・・・」、「十二にいう。・・・国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。・・・」、「十六にいう。・・・人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。」、「十七にいう。・・・重大な事柄を論議するときは、・・・みんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。」
http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm
等の条文を、官吏も人民も、それぞれが「公」意識の下、忠実に実行していた、という感があります。
そもそも、十七条憲法とは、当時の日本政府首脳が、縄文文化を主、弥生文化を従として、両者が弁証法的に止揚されて形成されたところの、日本文明の主、すなわち基調、たる縄文モードの喚起、尊重を訴えたものである、と解することができます
だからこそ、十七条憲法を直接意識するとしないとにかかわらず、この基調は、モードの変遷を超えて、日本で受け継がれていった、ということなのではないでしょうか。(太田)
「・・・「驕れる白人と闘うための日本近代史」松原久子<(注9)> 著者<からブログ主が要約紹介。>
(注9)1935年~。「学者、評論家、著作家・・・生家は京都市の建勲神社」。国際基督教大学卒、ペンシルバニア州立大修士(舞台芸術)、独ゲッティンゲン大博士(日欧比較文化史)、現在、カリフォルニア州に在住。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E4%B9%85%E5%AD%90
第7章 「誰のものでもない農地」
江戸時代は鎖国されていたが、富は国民全体に分配され社会的な貧富の差は無かった。権力と影響力を持つ武士(サムライ)は概ね貧しかった。しかし、武士は知識欲が旺盛で時代に応じた対応性に於いても、発展してきた市場社会にも世界に例を見ない独自なやり方で発展させた。
また、インフラの整備、流通の整備、金融機関の整備等を構築させている。農民や町民は織物や農業技術を向上させ、しかも、誰もが読み各算盤が出来る学習欲に富んでいた。
そんな江戸時代の農地の所有について日本の特徴を述べている。・・・
江戸時代の農地の所有権はについてヨーロッパと比較してみると、大きな違いであることが分かった。
ヨーロッパでは「農地改革」というと農地所有者から農地を奪とり、貧しい農民に分け与えると思い描く。したがって、土地所有者は政治権力者を利用して激しい抵抗をする。所有者と非所有者との間で激しい対立が生じ流血事件に至る。中国でも同様の事が起こっている。
日本の農地改革は開国後に行われているが全く違っていた。その理由は、鎖国時代の日本では、農地所有の問題はヨーロッパ、ロシア、中国と全く異なる方法で解決している。鎖国時代の土地所有者は幕府で大名は将軍から任された土地を管理するだけで、所有していなかった。武士もせいぜい自宅分のわずかな土地しか所有していなかった。
農民も農地の所有者ではなく、先祖から受け継いで耕作している農地は、売ることが出来ず、村社会の内部での貸借や賃貸し、一時預けが許されていただけである。形式的には農業に利用できる農地は全て村の所有であった。その土地が相続であれ、賃貸借であれ、使用権の形で委ねられているだけであった。・・・
村では共同で用水路、水門等を作って、これらを共同で維持した。また、田畑の小道、橋、街道へのアクセスも作り、村が管理した。川や池の漁業権、海の漁業権も村が持っていた。
村落共同体は森林も管理し、森は各村に分配され、森から建築材を得たり薪や木炭の燃料や、木の葉から肥料を作ることが出来た。また埋め立てや開墾などで新しい農地拡張することも行っている。このような農地の獲得は大勢の農民が参加して大掛かりなプロジェクトで、多額に資金も必要としたが、大名、商人、神社・寺から資金を提供してもらい、最も多く提供したのが幕府であった。幕府の参入は大名や一部の者に幕府の管理範囲を超えて同盟を結ぶことを警戒して、積極的にプロジェクト資金を提供した。無償で労働力を提供した村は、貢献度に応じて報酬を与え、それを村で民主的に話し合いして分配した。
また出資者である、神社、寺、町人から幕府に至るまで、出資高に応じて農地の使用権を得る事が出来た。この使用権は農民に賃貸し何を栽培してもらかの指示も出来た。・・・
農業、林業に使用されない土地は全て、所有物であり需要と供給の市場原理に委ねられた。・・・
真の大地主は幕府で将軍一族で日本の全農地に1/4以上所有していた。これが幕府の権力の基盤となっていた。この農地から上納される税収入によって、幕府の全てに歳出が賄われた。もちろん幕府は膨大な農地を一切売却する意志は無かった。天皇家も幾ばくかの土地を所有し宮中を維持できる程度であった。・・・
結局、国家(幕府)だけが大地主であったのである。」(β)
⇒それなりの典拠に裏付けられているとすれば、鋭い指摘です。
(今まで彼女が私のレーダーに引っかからなかったのは、私の怠慢ですが、残念です。)
つまり、日本の農民は、「公」の意識を抱いていただけではなく、その生産手段の一切合財が、そもそも、様々なレベルの「公」のものであった、というわけです。
考えてみれば、同じことが、例えば、商人であった住友・・日本の大企業ないし財閥の原型・・が「所有」していた、生産手段たる別子銅山についても、更には、住友という商工複合企業そのものについてもあてはまりそうです。
そういう歴史があるので、今なお、日本では、農地の集約や転用は容易ではありませんし、企業を売買の対象にすることにも抵抗感が強いのです。
結局のところ、日本は、昔も今も、エージェンシー関係の重層構造からなる柔らかい組織という社会主義的メカニズムを基調とし、市場メカニズムを従とするところの、ユニーク、かつ超先進的で普遍的な政治経済社会であり続けて現在に至っているのです。
時代と共に起こった比較的大きな変化と言えば、まだ素描の域にとどまっていますが、江戸時代に大企業が生誕するとともに市場メカニズムの比重がそれまでに比べて顕著に増大することを背景にプロト日本型政治経済体制が成立し、明治維新以降に、(タテマエだけに近いわけですが、)株式会社制度と、(一種の市場メカニズムである)選挙制度とが導入されたこと、そして、昭和に入ってから、工業社会以降に適合的な日本型政治経済体制が成立したこと、くらいでしょうか。
4 終わりに代えて
八鍬は(恐らく山形県出身でしょうが)山形大/東北大で教育を受け現在東北大で教鞭を執り、平川新は東北大で修士を取ってからずっと宮城県で教鞭を執っており、縄文時代には日本の中心であり、縄文文化の様相を色濃く残している東北地方を拠点としていますし、山内は小樽というかつての縄文文化の北限近くで生まれ、
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/jomon/potal.htm#jump_6access
縄文人が弥生人と混血せずにそのまま残ったと考えられているアイヌが住んでいる北海道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C
で高校時代までを過ごしていますし、松原は、生まれこそ上方ですが、縄文時代に源を発し縄文文化を体現しているところの神道の神職の家に生まれています。
だからこそ、彼らは、押しなべて、縄文人的な観点から、出来の悪い弥生人的とも言うべき欧米事大主義者達であって、いずれも上方生まれであるところの、丸山(旧松代藩士族の家系で大阪府生まれ、小学校からは東京)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7
や川島(家系は不明だが岐阜市生まれで大阪市で高校時代までを過ごす)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B3%B6%E6%AD%A6%E5%AE%9C 前掲
や大塚久雄(家系は不明だが旧制高校まで京都市で過ごしキリスト教徒となる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E4%B9%85%E9%9B%84
らが唱えた近代主義の虚構性を実証的に暴くことに、それぞれ、一定程度成功し、その結果として、ポスト資本主義の旗手たる日本像構築の手がかりを我々に与えてくれた、というのが私の認識です。
(完)
資本主義とポスト資本主義(続)(その4)
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