太田述正コラム#7870(2015.8.25)
<ヤーコブ・フッガー(その5)>(2015.12.10公開)
「<利子解禁より前においては、>フッガーは、<利子を>直接的な支払の形では受け取らず、例えば、諸大砲の不可欠な素材である銅や、諸大砲を購入する諸手段である銀、を採掘する権利を受け取った。
ハンガリーで採掘される銅と銀を売り捌くために、フッガーの会社は、やがて欧州の大部分を覆うこととなる、精緻な流通ネットワークを構築した。
彼は、諸道路を建設するとともに、小さな諸国家へと細分されていた欧州において、安全通行許可証群(safe-conduct passes)や諸関税に係る諸協定について交渉しなければならなかった。・・・」(C)
「この金融家は、自分の銀行の新しい資本を取得するのに貯金諸口座を活用(exploit)した。
貯金口座は、<彼が、>最初にアウクスブルクで導入し、年5%を支払ったのだが、これは、カトリック教会の高利貸禁制に抵触した。
フッガーは、彼の主張を、直接、(たまたまメディチ家の人間だったが、)法王レオ10世のところに持ち込んだ。
この法王は、フッガーからの気前よき贈り物によって個人的に裨益していた。
この法王は同情的であり、この高利貸し禁制は1515年に都合よく書き換えられた。
すなわち、この過程は、「労働、費用、或いはリスクを伴うことなく獲得された利潤」、と再定義されたのだ。
かくして、諸顧客に係るリスクを引き受けることで、諸貯金は正当な事業(business)になったのだ。・・・」(B)
「・・・もちろん、フッガーは、それを、20%<の利息を付ける形>で貸し付けたのだ。・・・」(G)
・複式簿記/財務諸表
「・・・フッガーの最大の優位は、カネの監視(monitoring)と送金、という即物的な過程から来ていた。
彼は、複式簿記の初期における採用者だった。
彼は、それをイタリアで若い時に学んだが、おかげで、諸勘定をより正確に記録することが可能になった。
アウクスブルクの他の商人達とともに、フッガーは加速度的に国際化していくカネ市場を創造した。
彼の諸支店のネットワークを通じて、彼は、一つの支店の借方を増やす一方で、もう一つの支店の貸方を増やすことによって、諸資金を、現金を実際に移動させることなく送金することを可能にした。
このネットワークは、フッガーが、ペテロの小銭(Peter’s Pence)<(注9)>・・カトリック教徒達の法王庁に対する自発的諸寄付・・の主要な送代理店になることを可能にした。
(注9)イギリスのサクソン人が始めてイギリス人全体に広まったところの、イギリスだけに見られた慣行。16世紀の英国教の成立に伴い禁止されたが、一部の人々は隠れてこの慣行を続けた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Peter%27s_Pence
これは興味深い。
想像するに、欧州にはなかったところの、大金持ちならぬ庶民による慈善としての寄付、という観念がイギリスでは確立しており、その一環として、イギリス人庶民達が法王庁にも慈善的寄付を行った、ということではなかろうか。
フッガーは、手数料として(for his trouble)、送金ごとに、その3%を稼いだ。・・・」(C)
「フッガーは、・・・自分の事業のための包括的財務諸表を編纂した最初の実業家でもある。・・・」(E)
・敵対者達の打倒
「・・・加齢に伴い、彼に死んで欲しい一連の敵対者達が出現した。
一番目は、中世の騎士修道会(military order)の一つであるテュートン騎士団(Teutonic Knights)<(注10)(コラム#3284)>であり、次いで、ドイツ農民が、フッガーが頭首(figurehead)であったところの、商人階級による搾取に対して蜂起した<(注11)>。
(注10)ドイツ騎士団=ドイツ人の聖母マリア騎士修道会(正式名称)。「テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つに数えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3
「<法王>クレメンス3世の1193年の呼びかけが・・・公式の発端となった<ところの、>・・・デンマーク王、スウェーデン王、リヴォニア帯剣騎士団、<及び、デュートン>騎士団によって開始された<北方>十字軍<(コラム#146、6520)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
に加わっていたテュートン騎士団は、「1226年<に>神聖ローマ帝国<皇帝>のフリードリヒ2世<、及び、>1230年・・・<に法王>グレゴリウス9世<、>・・・の両方から承認を得<て>・・・プロイセンをキリスト教化するための長い軍事活動を開始する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3 前掲
(注11)「宗教改革<を契機に、>・・・ローマ教皇と結ぶ神聖ローマ皇帝の集権化に反発する諸侯はルター派に転じ始め、没落しつつあった騎士たちは教会領を没収して勢力を回復しようとする反乱を起こし(騎士戦争)、教会や諸侯の抑圧に苦しんでいた農民も各地で反乱に立ち上がった。・・・
ドイツ農民戦争は、1524年、西南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院の農民反乱から始まった。彼らは賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて各地の農民に呼びかけたため、蜂起は・・・広がっていった。・・・
ドイツ農民戦争は、10万人の農民が殺されて敗北に終わり、農民は一層農奴的抑圧下に置かれることになった。南ドイツの農民は、このとき諸侯軍側についたルター派から離れ、現地ではカトリックが主流となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%BE%B2%E6%B0%91%E6%88%A6%E4%BA%89
1520年のドイツ農民戦争(German Peasants’ Revolt)の指導者の一人は、原初的な共産主義者たる僧侶のトマス・ミュンツァー(Thomas Muntzer)<(注12)>であり、彼は、自分の追従者達に、神はフッガーを殺されるであろう、と約束した。
(注12)1489~1525年。「1506年にライプツィヒとフランクフルトで神学を研究し、1519年にルターと知り合い信奉者となる<も、>・・・聖書の言葉を階級闘争に翻訳し、・・・聖職者と金持ちを攻撃し天国の到来を説き、財産の共有を基礎にした社会秩序の改革を訴え<るに至り、農民戦争の指導者の一人となるが、>・・・捕らわれて妻とともに斬首された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%BC
⇒地理的意味での欧州の最初の農民戦争(Peasants’ Revolt)たるイギリスのワット・タイラーの乱(1381年)が、要は、税金の減免を求めた、即物的なものであった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E4%B9%B1 (←出来が悪い!)
https://en.wikipedia.org/wiki/Peasants%27_Revolt
こととは大違いのおどろおどろさであり、後に同じドイツで生まれた、かつ同じくキリスト教を原型としたところの、マルクス主義の原型がここにある、と言っていいでしょうね。(太田)
(冷戦の時代には、ミュンツァーの肖像画が東独の切手に登場したのに対し、フッガーの肖像画が西独の切手に登場した。)
しかし、フッガーと彼の同僚たる商人達は、自分達の事業への脅威を戦って退けてくれたところの、諸軍に資金提供を行った。
彼は、1525年にベッドの上で死んだ。
若い時に、フッガーは、出来る限り長く利潤をあげ続けることを誓った。
そして、彼はそれを実行した。
亡くなった時には、彼はフローリン数百万長者だった。
彼は豪華な暮らしをし、アウクスブルクの宮殿で熟睡した。・・・」(B)
「フッガーの晩年は、あらゆる方面から来た諸攻撃から自分の富を守るために費やされた。
テュートン騎士団は商人階級の興隆に憤ったし、プロテスタントの(マルティン・ルターを含むところの)聖職者達はフッガーの高利貸と不当利得を非難したし、革命的農民達は私有財産の終焉をを願ったし、帝国諮問官達(imperial councilors)は金融家達は「街道の盗賊たちや盗人達を全部合わせた」よりも悪いと文句を言った。
最終的には、この銀行家は、カール5世に訴えざるをえず、この皇帝に、その冠はフッガーのカネでもって購入されたことを思い起こさせた。・・・」(D)
・慈善活動
「フッガーは、完全に善なる良心とともに彼の富を集積した、とステインメッツは記す。
すなわち、その富の幾許かを用いて、彼は、彼の生地のアウクスブルクにいくつも教会を建設した<(注13)>し、働く貧者のための瞠目すべき住宅である、フッガーライ(the Fuggerei)<(注14)>のプロジェクトを行った。
(注13)ちょっと調べた限りでは、丸々教会を寄進したことはないのではないか。
聖アンナ教会附属のフッガー礼拝堂をフッガーが寄進し、そこがフッガー一族の墓所になっている。
https://en.wikipedia.org/wiki/St._Anne%27s_Church,_Augsburg
(注14)「世界最初期の計画的集合住宅・・・三十年戦争でフッガーライは、アウクスブルクがスウェーデン軍の占領を受けたために住人が追い出されてしばらく兵舎として使われた。第二次世界大戦ではアウクスブルクは爆撃を受けて住居の半分が全壊し、損壊無数という被害を受けた。・・・<現在も>現役の福祉住宅地で・・・あり、多数の住人がいる。家賃は創設時と同じ・・・1年に・・・1ライングルデンで、これは現在の貨幣では0.88ユーロとなり、もはや形式的なものになっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4
これらは、今日もまだ残っている。・・・」(C)
⇒自分の生地での寄進は故郷に錦を飾ったということ以上のものではないのであって、フッガーの「完全に善なる良心」の表れとは私は思いません。
なお、事業体としてのフッガー家は、30年戦争の後、廃業の憂き目を見ています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Fugger (太田)
(続く)
ヤーコブ・フッガー(その5)
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