太田述正コラム#7872(2015.8.26)
<ヤーコブ・フッガー(その6)>(2015.12.11公開)
 (3)歴史への影響
 ・ハプスブルク家興隆へ
 「フッガーは、1459年に、アウクスブルクで、裕福な織物交易者達と銀行家達の一家に生まれた。
 彼は、ハプスブルク家の領土的諸大志に貸し付けることで、自分の資本と評判を危険に晒すことによって金持ちで力を持った存在へとのし上がった。
 その実にひどい信用貸付格付にもかかわらず、フッガーの兄弟が神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ3世(Frederick III)<(注15)>に貸金が与えられた時に始まった関係を彼は享受した。
 (注15) 1415~1493年。ドイツ王:1440~1493年、皇帝:1452~1493年。「最初は・・・わずか3州の貧しい領主であり、決断力に欠けて臆病で気が弱く、常に借金で追われていた。フス戦争で混乱に陥ったボヘミアをオスマン帝国から防衛する任をオーストリア・・・公に託すという理由のほか、御しやすい人物というのが、選帝侯<達が彼をドイツ王>に選<んだ>理由であった。数多くの蔑称を身に纏い、死後は「神聖ローマ帝国の大愚図」という綽名を贈られた。まともにぶつかれば歯の立たない強敵が大勢立ちはだかったが、辛抱強く敵が<世を>去るのを待ち、選帝侯の予想に反して53年もの間帝位を占有し続け、ハプスブルク家の帝位世襲を成し遂げた。・・・
 なお、<下出の理由から>・・・、ローマで戴冠した皇帝はフリードリヒ3世が最後となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%923%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
 ヤーコブは、フリードリッヒの息子の皇帝マクシミリアン1世(Maximilian I)<(注16)>・・オーストリア・ハンガリー帝国を樹立した・・、及び、<その孫の>皇帝カール5世(スペイン王)・・そのパヴィア(Pavia)の戦い<(注17)>がハプスブルク家の覇権を強固なものにした・・の筆頭銀行家になった。
 (注16)1459~1519年。皇帝:1493~1519年、「マクシミリアン大帝と称される。また武勇に秀で立派な体躯に恵まれ、芸術の保護者で<も>あったことから、中世最後の騎士とも謳われる。・・・
 「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻により領土を拡大してきた。その最も成功した例はマクシミリアンの時代であった。
 自身の結婚によりブルゴーニュ自由伯領、ネーデルラントを獲得した。
 子フィリップとマルグリットをそれぞれカスティーリャ=アラゴン王家の王女フアナとアストゥリアス公(王太子)フアンと二重結婚させた。マルグリットの夫フアンらの早世により、イベリア半島の大部分と、ナポリ、シチリアを獲得した。フィリップは早世するが、その子カールはのちにスペイン王(カルロス1世)と神聖ローマ皇帝(カール5世)を兼ね、ハプスブルク家隆盛の基礎を築いた。スペインはアメリカ大陸を征服し、日の沈まない帝国を築いた。
 孫フェルディナント(後の皇帝フェルディナント1世)とマリアをハンガリーのヤギェウォ家の子女と結婚させた(ウィーン二重結婚)。マリアの夫ラヨシュ2世は1526年にモハーチの戦いで戦死し、この結婚を取り決めたウィーン会議(1515年)の決議に従い、ラヨシュの姉アンナの夫であるフェルディナントがハンガリーとボヘミアの王位を継承した。・・・
 <彼は、>1493年<に、結果的にだが、>ローマでの教皇による戴冠を経ずに帝位についた最初の皇帝とな<った。>・・・
 <なお、>1495年・・・<に発出した>永久ラント平和令<で、>・・・神聖ローマ帝国は中央集権的ではなく領邦国家の連合としての道を歩むことになる。・・・
 <また、彼は、>1512年、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という言葉を使用し、神聖ローマ帝国の版図がもはやドイツ語圏及びその周辺に限られること、世界帝国の建設という目的の放棄を明確にした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B31%E4%B8%96_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%9A%87%E5%B8%9D)
 (注17)「イタリア戦争における戦いの一つ。1525年2月にロンバルディア(イタリア)・・・で行われ・・・スペイン=<神聖ローマ>帝国連合軍・・・が、フランス王フランソワ1世が直接指揮したフランス軍を、パヴィア城外の・・・広大な狩猟場で攻撃し<、勝利し>た。・・・フランソワ1世自身・・・捕虜となり、・・・屈辱的なマドリード条約に<収監先で>署名させられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「イタリア戦争は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争である。戦争の期間<は>1494年から1559年と<されることが多い。>・・・
 1435年以降、ナポリ王国を支配していたフランス系のアンジュー家・・・とアラゴン王家・・・が争い、1443年、ナポリはアラゴン王家の支配下に入った。15世紀末以降、フランスがナポリあるいはミラノ継承を主張し、イタリアに侵攻した。一方のハプスブルク家は神聖ローマ皇帝としてローマ・カトリックの擁護者を自認して<おり、フランスと戦うことになった、>・・・
 <そして、>神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の死後、孫のスペイン王カルロス1世とフランス王フランソワ1世が皇帝選挙で争い、1519年にカール5世が神聖ローマ皇帝に即位し・・・た。・・・フランスはハプスブルク家に両側(ドイツ・スペイン)から挟まれる形になり重大な脅威を受けることになったため、フランスは戦略上イタリアを確保することが必要になった。異教徒であるオスマン帝国の存在や、折から始まった宗教改革もこの混乱に輪をかけた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
 彼の巨額の諸貸付金は、担保物件によって裏付けられており、彼のハプスブルク家の諸顧客は、しばしば、それらを、現金よりは物(kind)でもって返済した。・・・」(B)
 「<彼は、オーストリア>大公シグムント(Sigmund)<(注18)>に3,000フローリンを貸し、1ポンド8フローリンの銀1,000ポンド・・後に1ポンド12フローリンで売れた・・を受け取るという、借款浮かれ騒ぎに参画することができた。
 (注18)1427~96年。オーストリア公/大公:1446~90年。1446年まで、彼の従兄弟である、皇帝フリードリッヒ3世が摂政を務めた。1470年代から80年代前半にかけて、約1000年ぶりに、大きくて重い銀貨を鋳造した。1487年に対ヴェネツィア戦争を開始するも戦果を挙げることはできなかった。2度結婚するも、子供を授からなかったこともあり、彼の所領は、フリードリッヒの息子のマクシミリアンが引き継ぐことになった。。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sigismund,_Archduke_of_Austria
 それは、フッガー以外が貸した金高に比べれば、取るに足らない額だったが、シグムント及びハプスブルク家との彼の関係を固めることになり、彼の鉱業への参入を可能にした。
 それはまた、フッガーの銀行家としてのキャリアを起動させた。
 何年も後、より強力なヴェネツィアとの軍事的いざこざの間に、シグムントの財政的無責任性が、彼を大銀行家達にとっての好ましからざる人物にした。
 窮余の策として、彼はフッガーに目を付けたところ、フッガーは、この君主に100.000フローリンを貸し付けるために、自分の家産をかき集めて全てをカネに替えた。
 この本全体を通じて、ステインメッツは、フッガーの事業における諸才能中、彼の成功に貢献した最大のものが彼のリスクに対する許容性であることを分かってもらおうとしている。
 これが、その最初の事例だ。
 フッガーは、この貸付金に厳しい諸条件を付けた。
 その中には、シグムントが自分の鉱山群の銀でもって返済することを禁止し、フッガーに国<(オーストリア大公国)>の財務部門の統制権を与えること、も含まれていた。
 仮にシグムントが返済すれば、フッガーは一財産を持ち帰ることになる。
 しかし、仮に返済しなければ・・シグムントの過去の記録を踏まえて、銀行家達全員がそうなるだろうと確信していた・・、フッガーは破滅することになる。 
 他の大きな銀行家達はフッガーの間抜けさを嘲笑ったが、その嘲笑いは、「シグムントの銀がフッガーの倉庫群に馬車群によってうずたかく積まれるようになった」時に止んだ。
 今や、フッガーははるかに金持ちの男になり、地方の統治者にとっての信頼される友人になった。
 そのシグムントはすぐにフリードリッヒの息子のマクシミリアンによって顔色を失うことになった。
 マクシミリアンは、シグムントとの間で、彼が自分に負っている借金を返済しないのなら自分に権力を譲る、という取り決めをしていた。
 (フッガーは、シグムントに権力を維持できるように金を貸すこともできたが、マクシミリアンが権力を握った方が良いと決めたのだ。)
 フッガーは、自分の銀の諸利潤でもって高価な土地を購入し、その上で、マクシミリアンがウィーンを奪取する努力にカネを貸し付けた。
 この皇帝は、銅採掘の一等地であるハンガリーをドイツの実業界に開放することも行ったが、フッガーは同国の鉱山群を購入し、作り変えた(reconfigured)。
 マクシミリアンが、他の銀行家達の圧力の下で、フッガーとの関係を絶とうとした時、自分の増大しつつあった力を見せつける形で、フッガーは、影響力のある公爵達や司教達に圧力をかけてマクシミリアンの気持ちをほだした。
 ダメ押しは、フッガーが一人の司教を、当人がマクシミリアンに貸していた巨額を取り消すよう説得したことだった。
 皇帝をこの窮地(jam)から脱出させる諸資源を持っている唯一の人間はフッガーであり、彼は、ただちにこの皇帝の良き思し召しを回復するに至った。・・・」(E)
(続く)