太田述正コラム#7880(2015.8.30)
<ヤーコブ・フッガー(その10)>(2015.12.15公開)
(5)エピローグ
「・・・モンテーニュ(Montaigne)は、フッガーのアウクスブルクの宮殿を、自分がそれまで見た中で最も豪華なものであったと描写した。
フッガーは1525年に亡くなった。
彼の墓碑銘・・恐らくこの銀行家自身によって口述されたもの・・の中で、謙虚さ皆無にも、彼は「富の獲得において随一だったし…、彼はその人生において比類がなかった…ので、死後も人間を超えた存在である(he is not to be numbered among the mortal)。」と主張した。・・・」(D)
⇒日本の豪商の墓碑銘/辞世的なものをネットで探したのですが、これといったものに遭遇しませんでした。
日本の場合、63歳で亡くなった、天下人たる豊臣秀吉の51歳の時の有名な辞世「露と落ち露と消えにし我身かな 難波の事も夢のまた夢」
http://www.beach.jp/circleboard/ad25106/topic/1100091836486
に代表されているように、自己顕示とは対蹠的なものばかりです。
また、豪商の生活ぶりですが、顕示的消費を控えたことが特徴としてあげられるのではないでしょうか。
例えば、「滋賀県の南東部<本拠として、>・・・江戸中期以来、近江日野商人として商業活動を続けた山中兵右衛門家の本宅<は、>・・・道路から見える表の部分は質素ですが、奥座敷や庭など奥まったところに多くのお金をかけてあるのが特徴です。・・・<というのですが、その奥まったところにある部屋を見ても、建材や掛け軸等に贅を尽くすだけで、一見したところ、どこにでもありそうな佇まいのものです。(太田)>・・・<しかも、>豪商であった山中邸は日野商人のなかでも特別なつくりで、多くの日野商人の邸宅はもっと質素なものが一般的です。」
http://find-travel.jp/article/8790
といった具合です。(太田)
フッガーは、アウクスブルクで一番大きな家を持ち、諸毛皮を身に纏い、12頭の馬に引かせた馬車に乗って動き回った。
富を顕示することは、顧客達や金貸し達に、彼がカネをたくさん持っていることを示すために重要だった。・・・」(F)
⇒信用がヒトそのもので構築できず、モノを介在させてやっと構築できる、非人間主義的な荒涼とした社会の姿が彷彿としてきます。(太田)
フッガーは1525年12月66歳で亡くなった。
その後数年して発表された計算結果では、彼の最終的な富は202万フローリンであったとしている。・・・
17世代後に、第二次世界大戦中に至っても、彼の子孫達は、彼が構築した事業に由来する収入でもって生活していた。・・・」(E)
⇒事業は収入を得る手段でしかなかった、ということが、こういった挿話からも窺えます。(太田)
(6)批判
「巨大な免罪符の仕組みを始めたところの、ベルリンの大司教<(注32)>へのフッガーの巨額の諸貸付金抜きでも、マルティン・ルターは、ヴォルムス(Worms)<(注33)>の大聖堂のドアに彼の95ヶ条論題を釘で打ち付けた可能性が高い。
(注32)ベルリンもマグデブルクも東部ドイツにある、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%87%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF
という意味では両市は近接しているが、ここは書評子のミスプリだろう。
(注33)西南ドイツに位置するヴォルムスは、「宗教改革に際して、マルティン・ルターを帝国追放刑にすることを決定した帝国議会が開催された地」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%82%B9
ではあるが、ルターが95ヶ条論題を打ち付けたとされる・・そんな史実はないとする説もある・・のは東部ドイツに位置するヴィッテンベルクのヴィッテンベルク大学の大学内の万聖教会(All Saints’ Church)であり、
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Ninety-Five_Theses
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
ここは書評子の勘違いだろう。
また、ハプスブルク家は、皇帝マクシミリアンが返済できなかったところの、莫大なフッガーの諸貸付金抜きでも、恐らく、(第一次世界大戦までの)更なる400年間、欧州の大きな部分を統治したことだろう。
<ステインメッツが行った>かかる法外な諸声明は、彼の歴史家としての名声を損ねるかもしれないが、<彼によって>見事に描かれた物語のスリルを損ねるものではない。・・・」(G)
⇒このくだりには同意ですが、史実に無頓着な書評子に言われても困ってしまう、というものです。(太田)
3 終わりに
こんなフッガーが「活躍」した欧州と、彼と世代的に近接していて、同じく商人であったところの、武野紹鴎(1502~55年)や千利休(1522~91年)のように、茶道という新しい総合芸術を生み出したり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%87%8E%E7%B4%B9%E9%B4%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91
或いは、角倉了以(1554~1614年)のように、私財を投じて公共事業を行うというスケールの大きい慈善活動を行ったり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%80%89%E4%BA%86%E4%BB%A5
住友政友(1585~1652年)のように、人間主義実践の場としての企業を創設し、その企業を永続させたり(コラム#7680)、の日本とを比較すると、両文明・・但し、欧州にあってはプロト欧州文明末・・の根本的な違い、及び、後者の文明の前者の文明に対する優位、普遍性を改めて感じますね。
(完)
ヤーコブ・フッガー(その10)
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