太田述正コラム#7932(2015.9.25)
<科学の発明(その2)>(2016.1.10公開)
 (3)群像
 「・・・1000年超にわたって、プトレマイオス(Ptolemy)<(注4)>の、圏に立脚した宇宙モデル(sphere-based model of the universe)<(注5)>が正しいものと受け入れられてきた。
 (注4)Claudius Ptolemy(英語表記)(83?~168?年)。「古代ローマの天文学者、数学者、地理学者、占星術師。エジプトのアレクサンドリアで活躍した。・・・地球が宇宙の中心にあり、太陽やその他の惑星が地球の周りを回るという天動説を唱えた。ただし、天動説などはプトレマイオスが初めて唱えたわけではなく、・・・アリストテレスやヒッパルコスなど、それ以前の古代ギリシアの天文学の集大成である<が、>・・・それまでの天文学を数学的に体系付け、実用的な計算法を整理したことで、何世紀もの間天文学の標準的な教科書としての地位を得た。・・・<なお、彼は、>地球の周長を実際の7割ほどの大きさと計算している。この地図は、約1,000年後の大航海時代にも影響を及ぼし、・・・コロンブスは「東よりも西方に航海したほうがアジアへは近道である」と考えてアメリカ大陸を発見する事になる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9
 プトレマイオスというのは、マケドニアの上流階級に多かった苗字。クラウディアスという名前から、同皇帝の時代に、プトレマイオスがローマ市民権を付与され、慣習に従って同皇帝の名前を名乗った可能性がある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ptolemy
 (注5)上出の日英のウィキペディアには、記述がない。
 <彼は、>地(land)、空、水、そして、火、の各圏がある<、とした>。
 水(と諸海)、及び、地の圏は概ね同心円であって、地球(earth)<(地)>はあらゆるものの中心にあった。
 ゆっくりと、極めてゆっくりと、海と地の現実の関係の発見が人々に諸水は地球の表面に存在していることを受け入れさせた。
 コペルニクス(Copernicus)<(コラム#1828、4342、7063)>による、地球と諸惑星は太陽を周回しているとの自覚は、プトレマイオスを葬った。
⇒コペルニクスの説は、古典ギリシャの時代に「地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという<地動>説を唱えた」アリスタルコス(BC310?~230?年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%8B%95%E8%AA%AC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%82%B9
の殆んど二番煎じに過ぎないのであって、このようなウートンの主張には首をかしげざるをえません。(太田)
 更に長い期間、殆んど全員が、アリストテレス(Aristotle)<(コラム#2106、2458、4089、4111、4800、7149、7338、7536、7714、7800)>の、宇宙の諸真理に到達するための演繹的方法(approach)を信じた。
 この根本的な信条もまた、やがて、諸観察を行い、諸実験を実施し、解釈し、また、諸計算を行うことが、より正確で強力な諸結論をもたらす、ということの広範な受容に直面して、道を譲ることとなった。
 ウートンのこの本は、興味津々の説得力ある詳細<な記述>の中から、どのように、これらの大きな諸変化が生じたか、を伝える。
 コロンブスから始まって、彼は、主要な役者達が、ニコラウス・コペルニクス、ティコ・ブラーエ、ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)<(コラム#686、4147、4340以下、6338、7063)>、ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler)<(注6)(コラム#4342、6338)>、エヴァンジェリスタ・トリチェリ(Evangelista Torricelli)<(注7)>、ウィリアム・ギルバート(William Gilbert)<(注8)>、ルネ・デカルト(Rene Descartes)<(コラム#1364、1467、1828、3752、4296、6909、6910、7067、7082、7891)>、アイザック・ニュートン、そして、ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)<(注9)(コラム#4080)>、等、であるところの、物語をなぞる。
 (注6)1571~1630年。「ドイツの天文学者。天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」を唱えた・・・天体物理学者の先駆的存在・・・。数学者、自然哲学者、占星術師という顔ももつ。」テュービンゲン大学卒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC
 1619年にケプラーの法則を発見。「惑星の軌道を楕円形であるとした<の>は、天体は真円に基づく運動をするはずであるという古代ギリシア以来の常識を打ち破るもので・・・あった。・・・コペルニクスによって地動説が唱えられて以降も、地動説に基づく惑星運動モデルは従来の天動説モデルと比べ、実用上必ずしも優れたものではなかった。しかしケプラーの法則の登場により、地動説モデルは天動説モデルよりもはるかに正確に惑星の運動を記述することが可能になった。・・・
 ニュートンは、自分が発見した運動の法則と、このケプラーの法則などを元に万有引力の法則を導き出した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87
 (注7)1608~47年。「イタリアの物理学者。ガリレオ・ガリレイの弟子。・・・水銀気圧計の発明者<であるとともに、>・・・液体を入れた容器の側面に比較的小さな穴を空けたときの液体の流出速度に関するトリチェリの定理を発表した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA
 (恐らくは)ファエンツァ(Faenza)のイエズス会単科大学を経て、ローマのサピエンツァ(Sapienza)単科大学で学ぶ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Evangelista_Torricelli
 (注8)1544~1603年。「イギリスの医師、物理学者、自然哲学者・・・静電気、磁石の研究をおこな<い、>・・・電気 (electricity) という言葉を作った1人とされている。また、・・・検電器を発明しており、電気計測機器の祖とされている。」ケンブリッジ大卒、同大博士。エリザベス1世及びジェームズ1世の侍医。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88_(%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%80%85)
 (注9)1623~62年。「フランスの哲学者、自然哲学者(近代的物理学の先駆)、思想家、数学者、キリスト教神学者・・・パスカルの三角形、パスカルの原理、パスカルの定理などの発見で知られる。・・・
 帰納的な思弁を行う哲学者であり、・・・同時代(17世紀)の思想を代表する合理主義哲学者ルネ・デカルトが・・・演繹的な証明によって普遍的な概念を確立しようとしていたことと比較して対極的である。」
 彼は、学校教育を受けず、父親から英才教育を受けた。
 「今日のタクシーにあたる辻馬車は1625年、ロンドンに登場、ほどなく、パリにも登場している」が、「1662年、・・・乗合馬車・・・というシステムを着想・発明。パリで実際に創業した。・・・今日のバスに当るもので「世界で初めての公共交通機関」である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB
⇒演繹(合理)的方法から帰納(経験)的方法への転換を論じる際に、ウートンが、デカルトなんぞを持ち出す一方で、「イギリスの哲学者、神学者、法学者である」フランシス・ベーコン(Francis Bacon。1561~1626年)に言及していないのは、韜晦を通り過ぎて、イギリス人以外を積極的に騙そうとする悪意すら感じます。
 欧州人のあのヴォルテール・・彼がイギリス・フェチであることを考慮すべきであるとはいえ・・ですら、「フランシス・ベーコン<を>・・・経験哲学の祖として賞賛している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3_(%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85) (「」内)
というのに・・。
 かねてから示唆してきていることですが、イギリス人のベーコンが近代科学の方法論を確立し、イギリス人のニュートンが近代科学を最初の画期的な理論的成果を生み出し、イギリス人のニューコメンやワットが近代科学の最初の画期的な応用的成果を生み出したのであり、ここに登場した雑魚のような欧州人達が一人も出現しなかったとしても、イギリスにおいて、かかる意味での科学革命(ウートンの言う科学の発明)は起こった、というのが私の見方なのです。(コラム#省略)
 なお、ニューコメンやワットが関わったところの、産業革命、なるものは存在しなかった、というのも私の見方、というか、イギリスでの最近の通説、であるわけですが、その伝で行けば、科学革命も存在しなかった、という言い方もまんざらできなくもなさそうですが、この話には、今は立ち入りません。(太田)
 その物語は、我々が今日知っているところの、科学的方法(method)が確固として打ち立てられ、かつ、トーマス・ニューコメン(Thomas Newcomen)<(注10)(コラム#4064)>による、「新しい科学の最初の大きな実用的な業績」である、蒸気機関の1712年の発明、で終わる。・・・」(B)
 (注10)1664~1729年。「イギリスの発明家、企業家である。またキリスト教の一派、クェーカー教徒であり、敬虔な信者であった。」無学歴。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%B3
 英語ウィキペディア↓も含め、彼がどのような知識経験を踏まえ、どのような経緯で蒸気機関を発明するに至ったのか、良く分からない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Newcomen
 (4)科学用語
  ア 総論
 「・・・科学革命の何たるかを理解しようとする際に重要な諸言葉が・・・ある。
 (1663年より後で初めて広範に使われるようになった)「事実(fact)」、(法体系から科学に導入(incorporate)された)「証拠(evidence)」、そして、「実験」<等>だ。・・・」(A)
(続く)