太田述正コラム#7938(2015.9.28)
<中共が目指しているもの(その2)>(2016.1.13公開)
3 私の考え
(1)関連年表
中共の、対日、対米国交回復がらみの簡単な年表を作ってみました。
1969年:中ソ間に戦争勃発機運漲る。毛沢東、四将官に対ソ戦略を諮問。
7~8月、ニクソン大統領が、パキスタン、ルーマニア訪問時に、中共指導者
との交流を希望している、とそれぞれの政府から中共政府に伝言してもらった。
1970年:1月、米中ワルシャワ大使級会談が再開され、別のチャネルの会談の必要性を
中共側が示唆。
12月、パキスタン経由で周恩来から特使派遣を希望する旨の伝言が米国政府に
あった。
1971年:1月、ルーマニア政府経由で大統領訪中を希望する旨の伝言があった。
7月、キッシンジャー、中共訪問。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A8%AA%E5%95%8F
1972年:2月、ニクソン大統領、中共訪問。
9月、田中角栄首相、中共を訪問し、日中は国交を樹立。
10月、中共、西独と国交を樹立。
1973年:3月に、(1968年に文革で失権していた)トウ、周恩来の引きで復権。
(現駐日大使の)中共外務省員の程永華、日本留学(和光大学)。
12月にトウ、「毛沢東の指示<で、>・・・党中央委員会副主席、中央軍事委
員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括」
1974年:「新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る」
1975年:創価大学に留学先を変更。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 (「」内等)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%8B%E6%B0%B8%E8%8F%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%A4%E6%AD%A3%E5%B8%B8%E5%8C%96
1976年:1月に、周恩来死去。
4月に、トウ、再び失権。
9月に、毛沢東死去。
1977年:トウ、最終的復権を果たす。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 前掲
1978年:トウ、学生、学者の大量外国留学を開始。
http://www.iie.org/en/Research-and-Publications/Publications-and-Reports/IIE-Bookstore/Educational-Exchange-between-US-and-China
10月、トウは、「日中平和友好条約の批准書交換のため、中国首脳として初めて訪日し、中国の指導者としては初めて昭和天皇と会見したほか、千葉県君津市の新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの先進技術、施設の視察を精力的に行い、京都や奈良にも訪れた。この訪日で鄧小平が目の当たりにした日本の躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。また、新日鉄との提携で、上海に宝山製鉄所を建設することが決定された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 前掲
11月:農村における生産責任制導入が開始される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%94%A3%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E5%88%B6
1979年:1月、米カーター政権、中共と国交樹立。トウ、初「訪米。首都ワシントンDCで大統領ジミー・カーターとの会談に臨んだ後、ヒューストン、シアトル、アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケットや航空機、自動車、通信技術産業を視察。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A8%AA%E5%95%8F 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3 前掲(「」内)
トウ、21世紀半ばまでの経済高度成長計画を提唱。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8C%96
:日本、対中ODA開始。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/data/chiiki/china.html
1980年:以降、経済特区設置開始。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E9%9D%A9%E9%96%8B%E6%94%BE
(2)私のコメント
米日西独の中共との国交樹立が、他の西側主要国とは違って遅れていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
のは、安全保障を米国に依存していた日西独両国が、対中政策において米国に追随せざるをえなかったからであり、当然、中共当局もそう考えていました。
将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、と中共当局は、(対ソ抑止の観点もあり、)米大統領に中共訪問をさせることにし、それに成功します。
それに引き続き、同年中に、中共は、米国との国交樹立をさておいて、というか、もともと、それは容易に実現しないと踏んでいたと思いますが、日本、西独と立て続けに国交樹立を果たしたことが、中共当局の狙いがどこにあったのかを物語っています。
では、「将」は、日本だったのでしょうか、西独だったのでしょうか、それとも日西独の両国だったのでしょうか。
下掲は、両国だったことを裏付けるもののようにも思われます。↓
「1972年夏、中国指導部は日本・西独との国交正常化を急いでいた。「現在、我が国は日本とも西独とも国交を樹立する可能性があるが、もし先に西独と国交を樹立すれば日本に影響を及ぼすだろうし、先に日本と国交を樹立すれば西独に影響を及ぼすだろう」(周恩来がボン駐在の新華社記者王殊に語った言葉)。周恩来は日本と西独を競わせて、この両国との国交正常化を実現しようとしていたのだ。」
http://www.iwanami.co.jp/sekai/2012/10/125.html
しかし、「将」が日本であったことは、まず、上掲の年表に掲げた、トウ小平による、一連の対外政策が裏付けています。
すなわち、まず、トウの最初の西側外遊先が日本であったことです。
米国はその翌年に訪問していますが、ちょっと調べた範囲では、彼が西独を訪問した形跡はありません。
また、政府留学生派遣も技術導入も資金導入も、ことごとく日本が先鞭を付けています。
(西独への政府留学生派遣時期については調べられませんでしたが・・。)
次に、貿易の数字が裏付けています。
当時の中共は、西側諸国から機械、穀物を輸入する必要に迫られていたのですが、米、西独に対する日本の比重は圧倒的です。↓
輸入:1978年 日23.4%、香港13.3%、西独6.6%、米4.8%
1988年 香港29.4% 日18.5%、米9.7%、西独4.8%
https://books.google.co.jp/books?id=mDS0GW7FH_0C&pg=PA128&lpg=PA128&dq=Deng+Xiaoping%EF%BC%9BWest+Germany&source=bl&ots=wG3SZFrthc&sig=7d_xpp35UZa5stPHb45YmDDuzvQ&hl=ja&sa=X&ved=0CGAQ6AEwC2oVChMIg6vB6baYyAIVARmUCh1mWwFz#v=onepage&q=Deng%20Xiaoping%EF%BC%9BWest%20Germany&f=false
最後に、証言もあります。
2014年11月に、元中共外務省員(1992~97年)の楊恒均(Yang Hengjun。1965年~)
https://en.wikipedia.org/wiki/Yang_Hengjun
はこう言っています。
(続く)
中共が目指しているもの(その2)
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