太田述正コラム#7944(2015.10.1)
<中共が目指しているもの(その4)>(2016.1.16公開)
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[儒教・人間主義・中共]
1 儒教と人間主義
孔子(BC552~479年)は、「周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
つまりは、階統制の確立を最重視した、人物だが、階統制の頂点に立つべき、彼の言う「聖人」とは、さしずめ、私の言うところの人間主義者であるところ、孔子は、それは例外的存在である、としていた。↓
孔子にあっては、「聖人とは、・・・政治指導者としてだけではなく、道徳の体現者としても理想とされる人物である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E4%BA%BA
ちなみに、「君子とは、為政者たるに相応しい徳を備えた人物をいう。古くは卿大夫のことを指したが、孔子は本来そうした地位にあるべき人物というニュアンスで、より広くこの語を使用した。」
http://www9.atwiki.jp/jyukyo/pages/20.html
さしずめ、「君子」とは、私の言うところの人間主義的人物だろう。
孔子自身は、人が本来的には人間主義者であるとは考えていなかったのではないか。
下出の孟子より後の人間だが、荀子(BC313?~238年以降)が唱えた性悪説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%80%E5%AD%90
の方を、私は孔子の真意に近い、と考えている。
それに対して、孟子(BC372?~289年)は、人は本来的には人間主義者であるとし、修養することで、誰でも、人間主義的人物、ひいては人間主義者になれる、と主張した。
これは、事実上、孔子の考えの大転換である。
しかし、「修養」の方法は必ずしも明らかではない。↓
「孟子は「性善説」を唱え・・・あらゆる人に善の兆しが先天的に備わっているとする・・・
惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)
羞悪…不正を羞恥する心
辞譲…謙譲の心
是非…善悪を分別する心
修養することによってこれらを拡充し、「仁・義・礼・智」という4つの徳を顕現させ、聖人・君子へと至ることができると<した>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84%E8%AA%AC
朱子(、というか、朱子学、)は、「修養」の方法として、「静坐」と「読書」を示した。↓
「朱子<(1130~1200年)>は・・・人が悪に染まるのは、「本然の性」が「気」に覆われており、人によってその度合いが異なるから善人・悪人の差異が生じるのだとした。朱子学の特徴の一つとして、「静坐」や「読書」による修養・教化があるが、これらは「気質の性」を「本然の性」という本来あるべき「性」へとかえすことを目的としたものである。これを「復初」・・・という。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84%E8%AA%AC
仏教について、太田コラムを通じて理解を深めてきた読者ならば、これは、儒教の支那仏教、とりわけ禅化、
https://soar-ir.shinshu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10091/11688/1/Humanities_25-13.pdf (←参考にした。)
であることに気付くことだろう。
そして、「静坐」が、念的瞑想であるはずもなく、従って、悟り/人間主義化、をもたらすことなどありえないことも・・。
そのような背景の下、王陽明(、というか、陽明学、)のように、「静坐」や「読書」は、ヒマがなく文盲でもある庶民には困難であるところ、あらゆる人が本来的には人間主義者なのだから、知行合一、すなわち、人間(じんかん)的実践を行うことで、人間主義的人物、ひいては人間主義者になれる、と主張する人物(流派)が出現した、ということだ。↓
「王陽明<(1472~1529年)は、>・・・普通の庶民にも・・・聖人となれる可能性が・・・十分あると<した。>・・・その弟子達は人欲<、すなわち、朱子の言う気、>を自然なものとして肯定し<た。>・・・
明代中期以後、急速に貨幣経済が浸透する。・・・陽明学における人欲の肯定<は>、発展著しい商業経済にとって非常にタイムリーな思想であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6
「王陽明は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであることを主張し、実践重視の教えを主張した。朱熹の学(朱子学)が万物の理を極めてから<(つまり、「修養」してから(太田))>実践に向かう「知先行後」であることを批判して主張した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%A1%8C%E5%90%88%E4%B8%80
これは、人は本来的には人間主義者であるとの、孟子、朱子(学)の伝統に属しながら、「修養」を否定することで、事実上、この伝統を再転換させた主張だった。
(それが、孔子への復帰ではないことに注意。)
(孔子も、そしてまた、(天皇制否定論にもつながりかねないその易姓革命論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%93%E5%A7%93%E9%9D%A9%E5%91%BD
が邪魔をして)孟子も、流行らなかった日本で、江戸時代に、朱子学や陽明学が流行ったのは、それぞれ、人間主義化追求、人間主義実践唱道、の点で、その大部分が人間主義者たる日本人達が、それぞれ、禅宗、日蓮宗、に覚えたのと類似した親近感を覚えたからこそだろう。)
2 毛沢東
以上のような経過を辿り、結局、儒教は中共人民の非人間主義性(阿Q性)を矯正することに失敗したところ、私の仮説は、中国共産党による全国統一後、10数年が経過しても、その状況に基本的変化が見られず、自分がやらせた、スターリン主義に基づく大躍進政策(1958~61年)の惨めな失敗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BA%8D%E9%80%B2%E6%94%BF%E7%AD%96
もあって、衰えた自分の権威・権力についての焦燥感、及び、劉少奇とトウ小平らが着手し始めたところの、支那の再「商業経済」化が人民の非人間主義性を一層募らせることへの強い懸念、に基づき、毛沢東は文化大革命
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD
を1966年に発動(~1976年)し、劉少奇・トウ小らからなる既存の階統制を破壊し、自らの権威・権力の回復、及び、中共全体を「新しき村」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E7%AF%A4
化することによって、人民の総人間主義化、すなわち、日本人化、を達成しようとした、というものだ。
以下の史実を、このような視点から反芻してみていただきたい。↓
。「<支那>革命は、(劉<少奇>や<トウ小平>のような)走資派の修正主義によって失敗の危機にある。修正主義者を批判・打倒せよ」というのが毛沢東の主張であった。・・・批林批孔運動・・・<支那>の思想のうち、「法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間である」とする。こうした「儒法闘争」と呼ばれる歴史観に基づいて中国の歴史人物の再評価も行われ、以下のように善悪を分けた・・・。
善人 少正卯、呉起、商鞅、韓非、荀況、李斯、秦の始皇帝、前漢の高祖・文帝・景帝、曹操、諸葛亮、武則天、王安石、李贄(李卓吾)、毛沢東ら。
悪人 孔子、孟子、司馬光、朱熹ら。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD
(武者小路実篤は、「1936年、<欧州>旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって・・・戦争支持者となってゆ<き、>・・・日露戦争の時期とは態度を180度変えて・・・太平洋・・・戦争賛成の立場に転向し、戦争協力を行った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%9F%E7%AF%A4
わけだが、もともと、主観的には日本の側に立って蒋介石政権と日支戦争/太平洋戦争を戦ったところの、毛沢東は、当然、そんなことは全く意に介さず、「新しき村」化に取り組んだ、ということだ。)
しかし、毛は、自らの権威・権力の回復こそ一応達成したものの、人民の人間主義化には完全に失敗した。↓
「幼少の頃に文化大革命に遭遇し、後に日本に帰化した石平は、「この結果、中国では論語の心や儒教の精神は無残に破壊され、世界で屈指の拝金主義が跋扈するようになった」と批判している。」(上掲)
(続く)
中共が目指しているもの(その4)
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