太田述正コラム#0358(2004.5.23)
<開放的な社会礼賛(その2)>

3 感想

 (1)北朝鮮
非開放社会の最たるものの北朝鮮の惨状はご承知の通りです。

(北朝鮮は、核問題について、以前(コラム#170及び171で)書いたように、降伏を決意しているものの、降伏条件の提示ができない状況が続いていました。
コラム#171では「拉致問題は・・このまま全く進展がないまま推移し、北朝鮮の国家体制の自壊か強制的体制変革があった後にようやく解決する、というのが私の予想です。(生還した5人の家族中、日本人であることがはっきりしている子供達の帰国がそれまでに実現する可能性が皆無であるとは言い切れませんが・・。)」と記しましたが、身代金と交換に5人を生還させることで、日本政府が事実上拉致問題を幕引きにしたことから、北朝鮮は降伏条件提示をしやすくなりました。
小泉総理の自分を捨てた決断に、ここは一応敬意を表しておきましょう。)

(2)中国
中国の近現代における苦難の歴史の原因も、中国が非開放社会であったためであったと言っていいでしょう。
近代において欧州(英国を含む広義の欧州。本稿においては以下同じ)の世界制覇をもたらしたものは軍事力の優位でしたが、それは帰するところ、火器の発達とその艦船への搭載によってでした。
振り返ってみれば元が崩壊した時点で、中国(明)には10世紀の宋時代に発見された火薬を用いた武器を元から引き継いでおり、また後に明は世界のどこにも航行できる艦船(むろん羅針盤付き)をも保有するに至りました(コラム#132)。
ところが、欧州では小銃が生まれ、更に大砲が生まれ、大砲が艦船に搭載されるようになり、1571年のレパントの海戦で欧州連合軍はオスマントルコ海軍を撃破し、爾来欧州諸国は世界に雄飛するようになったというのに、中国では大砲が艦船に搭載されるどころか、火器の発達自体が止まってしまいます。
これは、明末の17世紀に、「火薬は汚く、音がやかましい」ことから火器を貶める意見が官僚達の間で高まったためです。清でも19世紀に至るまでこの方針が踏襲され、火器の改良や欧州からの最新火器が輸入が行われませんでした。
(以上、http://www.csmonitor.com/2004/0504/p17s01-bogn.html(5月4日アクセス)による。)
こういうことは火器だけにとどまりません。
明や明の次の清の政治制度や官僚機構内が、非開放的で自由闊達な議論を許さなかったことによって、中国は欧州、そして後には日本、にあらゆる面で決定的に遅れをとり、欧州及び日本の半植民地になるという屈辱まで味わうことになるのです。
 中華人民共和国が開放化しない限り、中国の行く手には再び停滞と衰退が待っていると私が言うのはこのような史実に基づいているのです。

 (3)日本
 日本が抱える最大の問題は、アウトサイダーがいないという非開放的側面を残す社会(=金太郎飴的社会)であることです。
 江戸時代には日本は数百の藩に分かれ、藩ごとに言葉(方言)も違えば、考え方も違っていました。また、士農工商という身分制度は(負の面はさておき、)身分ごとに異なった考え方の人々を生み出していました。この異質のものがせめぎあうダイナミズムがあったからこそ、日本は近代化を円滑かつ急速になしとげることができたのです。
 明治維新後、中央集権化と身分制度の廃止が行われましたが、一方で自由・民主主義が導入されたおかげで、上記ダイナミズムは失われませんでした。それは、当時の教育制度が複線的なものであったこと、また次第に植民地や保護国が増え、日本が異質な人々を版図の中に抱え込むことになったこともあずかっていました。
 ところが、先の大戦での敗戦の結果、日本は植民地等をすべて失った上に、教育制度まで単線的なものにしてしまい、あまつさえ、縄文モードに回帰しつつあった背景の下で、外交安保を米国に丸投げする吉田ドクトリンを墨守することとなったため、日本人の意識は鎖国時代に逆戻りし、日本のエリートは外国と真剣に切り結ぶことがなくなり、国のありかたを自分で考えることもしなくなってしまいました。
 (以上、戦後日本のリーダーの不在の原因を分析した「コラム#0」(2001年11月15日付)中の「勉強会用レジメ」参照。また、縄文、弥生モードについてはコラム#276に「索引」があるので参照されたい。)
 日本の閉塞状況の打破のためには、吉田ドクトリンの打破と外国人の積極的受け入れ、すなわち開放化の徹底、によって弥生モードへの切り替えを図る以外にない、と私がかねてから力説しているのはそのためです。

(完)