太田述正コラム#8002(2015.10.30)
<米海兵隊について(その9)>(2016.2.14公開)
それぞれの諸軍種の最も良いところに光を当てたところの、TVの諸番組<の放送>、基地の諸公開、そして、諸展示、のおかげで、米国人の生活の中で、<陸海空及び海兵の>全ての諸軍種が人気と次第に高まる注目を得た。
<それが、>その後、このような顕示(publicity)の相対的欠如、が、徴兵制の放棄と相俟って、全軍種への注目を全般的に減少させてきた。
要するに、オコンネルの諸テーゼに対する懐疑の余地は大きいのだ。
長年にわたって、地位を失うのではないか、とか、外部の諸影響によって汚染されてしまうのではないか、という疑心暗鬼に取り憑りつかれてきた、海兵隊は、人類学者達が原理主義的ないしは孤立領域的(enclave)な文化と呼ぶところの、諸特性(traits)の多くを示した(displayed)。
そして、同隊を宗教的規律の下で生きる人々の集団(monastic order)と呼ぶのは行き過ぎだとしても、[第二次世界大戦から現在までの]時代における海兵隊は、宗教上の言語を規則的に援用するとともに、極端な規律と複雑に台本化された諸儀式を実践することによって、自分達が、彼らを取り捲く他の全ての組織とは、異なった、区別されるところの、より優れた、存在である、という印象を与えている。
<と、このように、オコンネルは主張するのだが、>それはそうなのかもしれないけれど、この著者は、この推測された「文化」が、無数の諸タイプの海兵隊員達や海兵隊の諸組織の典型であること、或いはまた、他の諸軍種の諸「文化」とは異なっていること、を説得力ある形で証明してはいない。
オコンネルは、自分の主張を裏付けるために、現役の海兵隊員達や海兵隊のOB達の証言をかき集めているが、その多くは、自他ともに許す、同隊の偶像達であるところの、もっぱら、最も声高な熱狂者達のものだ。
だから、諸本を書いたり諸口述史のために聴聞されたりしていないところの、巨大な数の海兵隊員達が、この文化に<本当に>同調しているのかどうかは証明されていないことになる。
<また、>同じ類の偏狭な<恣意的>選択性が彼の史料使用を台無しにしている。
すなわち、彼は、海兵隊が第二次世界大戦より前に水陸両用戦戦術の<世界における>パイオニアとなったとしているが、1930年代に、日本軍やロシア軍によって訓練されたり実施されたりしたところの、諸上陸<作戦>を無視している。
更に言えば、海軍/海兵隊の諸上陸<作戦>の教義は、この戦争中に書き換えられたり改善されたりしなければならなかったのであり、その諸欠点は1944年に至ってようやく除去されたのだ。
もう一つの題材だが、この著者による、第二次世界大戦中の新兵訓練の暴虐性についての諸引用は、その事実の何十年も後に書かれた諸回想録からのものに、大部分において限定されている。
新兵訓練所(boot camp)における暴虐は、朝鮮半島の戦闘を懐かしんだ幹部(cadre)によって1950年代に行われ始めた可能性の方が高い。
⇒オコンネルは、事実との間にタイムラグがあろうと、とにかく典拠に基づいた記述を行っているというのに、この書評子は、推測だけで記述しているのですから、何をいわんや、です。(太田)
この本の太平洋での戦いの諸記述は、海兵隊よりも数多い諸上陸<作戦>を行った米陸軍の諸経験を一貫して看過している。
陸軍の兵士達もまた、<海兵隊員達>同様の心理に直面していたのは間違いない、というのに・・。
1945年6月に、18歳のニューマン(Newman)<という女性>が第4海兵師団を指揮している少将に彼女の兄弟が硫黄島で戦死したとの手紙を送ったところ、このクリフトン・ゲーツ(Clifton Cates)<(注25)>少将は、海兵隊の接遇官(escort)に諸土産を持たせて彼女の誕生日に参列させた。
これはマスコミで大いに報道された。
(注25)1893~1970年。海兵隊司令官:1948~51年。第一次世界大戦の時のベローウッド、第二次世界大戦の時の硫黄島で活躍。テネシー大卒、弁護士、第一次世界大戦中の1917年に志願して海兵隊に入隊。
https://en.wikipedia.org/wiki/Clifton_B._Cates
彼が第4海兵師団長であったのは、少将として、1944年7月12日~1945年11月。
https://en.wikipedia.org/wiki/4th_Marine_Division_(United_States)
(続く)
米海兵隊について(その9)
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