太田述正コラム#8004(2015.10.31)
<米海兵隊について(その10)>(2016.2.15公開)
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[日本による敵前上陸作戦]
日本の海軍陸戦隊の日本語ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E9%99%B8%E6%88%A6%E9%9A%8A
には、戦前の同隊の活躍事例として、以下の三つ(四つ)があげられている。
「旅順攻囲戦 – 日露戦争。海軍陸戦重砲隊が参加。
尼港事件 – ロシア内戦。邦人保護のため全滅するまで戦う。
第一次上海事変 / 第二次上海事変 – 上海海軍陸戦隊が少ない兵力での防衛戦に成功した。」
最初のものは、1904年2月から始まった旅順攻撃の中で、「8月7日<に>・・・海軍陸戦重砲隊が大孤山に観測所を設置し、旅順港へ12センチ砲で砲撃を開始。9日9時40分に戦艦レトウィザンに<大きな>・・・被害を与えた。8月10日、旅順艦隊に被害が出始めたこと、また<ロシア>極東総督・・・<から>の度重なるウラジオストクへの回航命令もあり、ロシア旅順艦隊・・・は、ウラジオストクへ回航しようと旅順港を出撃した。海軍側が陸軍に要請した「旅順艦隊を砲撃によって旅順港より追い出す」ことは、これによって達成された。しかし日本連合艦隊は黄海海戦で2度に亘り砲撃戦を行う機会を得つつも1隻も沈没せしめることなく、薄暮に至り見失い、さらに旅順港への帰還を許してしまう<が、>帰港した艦艇の殆どは上部構造を破壊しつくされ旅順港の設備では修理ができない状況<となり、>結局最も損害が軽微だった戦艦セヴァストポリのみが外洋航行可能にまで修理したのみで、旅順艦隊はその戦闘力をほぼ喪失した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6
という、有名な話だが、そもそも、上陸作戦を伴ってはいない。
次に、尼港事件については、「日本軍のニコラエフスク駐留は、1918年9月海軍陸戦隊の上陸に始まった。同月のうちに陸戦隊は、陸軍第12師団の一部と交代し、1919年5月第14師団の部隊が交代した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ということなので、この上陸は尼港事件そのものとは無関係だし、上陸の際の戦闘への言及がないところを見ると、そもそも、上陸「作戦」と言えるのか疑問。
更に、1932年の第一次上海事変については、上海に「日本も海軍陸戦隊1000人を駐留させていた」ものの、上陸作戦(七了口上陸作戦)を敢行したのは、増援のために内地から派遣された2個師団中の第11師団であって、海軍陸戦隊ではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
また、1937年の第二次上海事変についても、上海に「計4千人あまり<の>・・・陸戦隊」がいたところへ、「横須賀と呉の特別陸戦隊1400名が18日朝に、佐世保の特別陸戦隊2個大隊1000名が19日夜に上海に到着し、合わせて約6300名となった」が、これは敵前上陸的な状況下での到着ではなかったようであり、「8月23日、上海派遣軍の2個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で上陸に成功した。・・・11月5日、上海南方60キロの杭州湾に面した金山衛に日本の第10軍が上陸した」という、陸軍の上陸の方が、規模がはるかに大きかっただけでなく、敵前上陸的であったと言えよう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
第一次と第二次の上海事変の際の陸軍の上陸作戦の際に使用した艦船についての紹介が、両ウィキペディアには出てこず、恐らくは、民間の客船ないし貨物船の徴用等で手当てしたものと思われるところ、これら上陸作戦が、果たして、地上部隊の水陸両用上陸作戦と言えるかどうか、疑問であり、最後の書評子の表現、「1930年代に、日本軍やロシア軍によって訓練されたり実施されたりしたところの、諸上陸<作戦>」、の妥当性については首を傾げざるをえない。
なお、参考のために、太平洋戦争中の海軍陸戦隊の敵前着上陸作戦を紹介しておく。
「ウェーク島の戦い – 舞鶴第2特別陸戦隊などが海軍単独での上陸作戦を実施。占領には成功したが大損害を受けた。
メナドの戦い – 横須賀第1特別陸戦隊(堀内豊秋中佐)の空挺部隊(空の神兵)などが参加。海軍単独での占領に成功。
ラビの戦い(ミルン湾の戦い) – 呉第3及び第5特別陸戦隊や、佐世保第5特別陸戦隊などが次々と投入され、海軍単独での上陸作戦を行った。しかし、<豪>軍・<米>軍との交戦の結果、大損害を受けて敗退した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E9%99%B8%E6%88%A6%E9%9A%8A 前掲
1930年代におけるロシア軍(ソ連軍)による上陸作戦についての検証は他日を期したい。
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・・・オコンネルは、ペリリュー(Peleliu)<(注26)>における、消耗しきった第1海兵師団の陸軍歩兵師団による交代、及び、ガダルカナル(Guadalcanal)<(注27)>とブーゲンビル(Bougainville)<(注28)>における、海兵隊諸部隊の陸軍諸部隊による救出、に触れていない。
(注26)「1944年(昭和19年)9月15日から1944年11月25日<にかけてのペリリューの戦いでは、>・・・第1海兵師団・・・が全滅判定(損失60パーセント超)を受けるという前代未聞の事態となって、ペリリュー島から10km南西に浮かぶアンガウル島の占領を終えたばかりの<米>陸軍第81歩兵師団に交代している。 上陸に際し「2、3日で戦いは終わる」と公言していた第1海兵師団長・・・は師団長を解任され、この惨状への心労から心臓病を発病したという。・・・
上陸開始から2ヵ月半が経過して<ようやく戦闘が終了。>・・・
日本軍 戦死者 10,695名 捕虜 202名 <終戦>まで戦って生き残った者34名
<米>軍 戦死者 1,794名 戦傷者 8,010名 ※この他に精神に異常をきたした者が数千名いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
(注27)「1942年8月7日~年2月7日<の>・・・ガダルカナル島の戦い<では、>・・・海兵隊第1海兵師団<が、上陸したが、>・・・日本軍は哨直・・・以外は眠っており、・・・完全な奇襲となった。・・・<この海兵師団は、>10月13日にヌーメアから・・・送り込<まれた、陸軍の歩兵>師団の1個連隊<の支援を得た。>・・・
米軍の捕虜となった日本の傷病兵など<は>、戦車の前に一列に並べられ、キャタピラでひき殺され<たという報道がなされたという。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
(注28)「1943年11月1日から停戦の1945年8月21日まで戦われた・・・ブーゲンビル島の戦い<では、>・・・第3海兵師団<が、>・・・<陸軍>第37<歩兵>師団<によって支援を受けたようだが、>・・・<その師団長は、>降伏しようとする日本兵を捕虜とせずに射殺するよう命令し、多数が虐殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
海兵隊のガダルカナルへの上陸の際には抵抗を受けなかったこと、や、陸軍の・・・第27歩兵師団がマキン島(Makin Island)<(注29)>ではわずか一個連隊しか用いるのを許されなかったこと、かつまた、タラワ/ベティオ(Tarawa/Betio)<(注30)>を確保するのに第2海兵師団の大部分が難儀したこと、もまた、示されていない。
(注29)1943年11月20日から1943年11月23日にかけて、ギルバート諸島ブタリタリ環礁で行われた・・・マキンの戦い<では、>・・・日本軍(すべて海軍部隊) – 総兵力693名<に対し、>・・・<米>軍-・・・陸軍第27歩兵師団1個連隊(指揮・ラルフ・スミス少将)・・・<の>6400名」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
であり、この書評子が「わずか」と記したのはバカげており、ニミッツが、「<米>側の圧倒的に優勢な兵力にもかかわらす、1日で終わる予定のマキン島攻略に4日も要したことについて、マキン島の陸上戦を担った陸軍を<徹底的に>批判し<た>」(上掲)ことは当然。
なお、実際には、「マキン島の隣島で起きた戦闘である。」(上掲)
(注30)「1943年11月21日から11月23日にかけて、ギルバート諸島タラワ環礁ベティオ島(現在のキリバス共和国)で行われた・・・タラワの戦い<では、>・・・
日本軍 戦死者 4713名 生存者 軍人 17名 内地出身軍属 14名 朝鮮出身軍属 129名
<米>軍 戦死者 1009名 戦傷者 2296名
<と、米>軍の人的損害も極めて大きなもので<あった。>・・・
日本側の死亡率が著しく高い理由<は>、<米>軍が、負傷したりして無抵抗の日本兵・軍属までも皆殺しにしたためであると推定<され>ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
第27歩兵師団の、サイパン(Saipan)<(注31)>における最初の戦闘の際のパフォーマンスに対する悪名高い諸問責(infamous charges)は、公正さと客観性を欠いている。
(注31)「1944年6月15日から7月9日に行われた・・・サイパンの戦い<では、>・・・6月24日に上陸軍司令官のホーランド・スミス<海兵隊>中将が、マリアナ攻略艦隊司令のレイモンド・スプルーアンス大将に第27歩兵師団長ラルフ・スミス少将の更迭を申し出た。その理由はラルフ・スミス少将の指揮が、今回の攻撃失敗を含めて、上陸以来適切でなかった上に、師団長に任命されて20ヶ月経つが、その間に<、マキンの戦いを含め、>ホーランド・スミス中将が満足できるレベルまで第27歩兵師団の戦力を向上させる事ができなかったということであった。スプルーアンスはこのことにより陸軍の名誉が傷つけられ、陸海海兵隊3軍の関係が悪化し今後の作戦に支障をきたす事を懸念し躊躇したが、結局はマリアナ諸島の陸上作戦の総責任者であるホーランド・スミス中将の意見を尊重してラルフ・スミス少将を更迭した。後任はスタンフォード・ジャーマン少将となったが、師団長を挿げ替えたところで戦況に大きな進展も無かった上に、ジャーマンは進撃遅延の責任を取らせて連隊長を更迭したため、逆に第27歩兵師団の士気は下がり、わずか4日後の6月28日にはジョージ・W・グライナー少将に師団長が再度変更になるといったドタバタ劇を演じている。この更迭事件は『スミスVsスミス事件』と呼ばれて<米>軍内で大問題に発展し、スプルーアンスの心配通り、この後の3軍の連携に大きな影響を与えている。この後の3軍連携の大規模作戦となった沖縄戦では陸上作戦の総指揮官は陸軍のサイモン・B・バックナー中将となったが、陸軍のバックナー中将に対し海軍や海兵隊は気兼ねせざるを得なくなって積極的な作戦提案等がしにくい状態となり、沖縄戦苦戦の一因となった。・・・
<なお、米>軍は島内の民間人を保護する旨の放送を繰り返していたが、「残虐非道の鬼畜米英」のイメージや帰国船撃沈事件による米軍への恐怖のためにほとんど効果がなかった。また、退避中の民間人が米軍による無差別攻撃により死傷者を出していたことも影響し・・・多くの日本人居留民が・・・自決した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
同師団は、二つの経験豊富な海兵両師団の間の、より困難な戦場を割り当てられていたのだ。
第1海兵師団ならぬ、<第2と第4の>両海兵師団が、彼らの戦闘諸作戦の後に陸軍によって<スミスVsスミス事件に鑑み、>悪し様に言われるに至ったが、<そもそも、>これらの諸部隊が、まずハワイ諸島で、次いでグアム(Guam)で<念入りに>再装備(refit)されたのに対し、陸軍の第27歩兵師団はマラリアに汚染されたニュー・ヘブリデス(New Hebrides)で再装備されたこと、<すなわち、海兵の諸部隊の方が陸軍の部隊よりも状態が良かった、>という事実も、忘れてはならない。
(続く)
米海兵隊について(その10)
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