太田述正コラム#8010(2015.11.3)
<小林敏明『廣松渉–近代の超克』を読む(その1)>(2016.2.18公開)
1 始めに
東京駅丸の内北口前の丸善で、先月、買ってきた4冊の文庫本(コラム#7984)を読むシリーズの第一弾をお送りします。
廣松渉を、比較的最近、(コラム#7648、7650で、)注目し始めたところ、彼の思想が整理して紹介されているのではないか、と考えて購入したのが『廣松渉–近代の超克』です。
著者の小林敏明は、「1971年名古屋大学文学部哲学科卒業。1974年名古屋大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了。1976年河合塾講師および河合文化教育研究所研究員。1984年ベルリン自由大学宗教学研究所客員研究員。1992年ハイデルベルク大学精神科客員研究員。1996年ベルリン自由大学哲学博士。ライプツィヒ大学東アジア研究所専任講師。2002年東京外国語大学大学院地域文化研究科助教授。2006年ライプツィヒ大学東アジア研究所日本学科教授。2014年退官後、執筆活動に専念。・・・名古屋大学在学中に全共闘運動に参加し、生涯の師とされる廣松渉を知る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%95%8F%E6%98%8E
という人物です。
「廣松渉の文章は・・・独特であると同時に奇怪でもある。・・・奇怪とは・・・異様とも言うべき死語化した漢語の乱発をいう。・・・ドイツ語を中心とする原語の多用もまたその「奇怪」さに拍車をかけている。」(9~10)というのですから、廣松の著作そのものにあたることなく、その愛弟子による廣松の思想の紹介本を私が選んだのは、その限りにおいては正解でした。
しかし、少し読み進めてみると、小林の文章で廣松について語っていると目されるところが、廣松の考えなのか、小林の考えなのか、或いは、廣松の考えを小林が翻案したものなのか、判然としない部分が結構あるのには弱りました。
とにかく、始めましょう。
2 廣松渉の思想
「<廣松は、1947年、わずか14歳の時に、>原爆は敗戦の原因ではなく、問題はそれを可能ならしめた戦勝国の自然科学およびその背景をなす生産力にあったとした<、と記した。>」(14)
⇒後段はその通りであるところ、廣松は、「1933年8月」(11)に生まれ、「彼の戦前戦時期というのはわずか12年間にすぎない」(11)にもかかわらず、戦前までしか使わなかった漢語を連発する点だけとっても、「この人物の人並みならぬ早熟ぶりを示している」(12)、と小林は指摘するのですが、ソ連の参戦ではなく、原爆を敗戦の直接的契機と信じていたらしいことは、彼が戦前戦中の日本国民のコンセンサスを感知していなかったことを意味するのであり、この小林の指摘には大きな疑問符を付けざるをえません。
もちろん、伝習館中学の「当時左翼運動の温床」(13)であった、「「社研」のメンバーとして名をを連ね」(13)ていた廣松少年の「立場」がソ連批判にわたるような記述を控えさせた、或いは、マルクス主義かぶれであったことが反共主義が日本国民のコンセンサスであったという事実から彼の目を背けさせた、という可能性もなきにしもあらずですが・・。(太田)
「<そして、彼は、それに続けて、>マルクスは科学に歴史性を付与する事によって、初めて真に科学の名に値する社会科学を樹立し得たのである<、とも記した>。」(14)
⇒小林は、このくだりにも大変感心しているところ、私には、(詳しくは説明しませんが、)14歳の少年相応の言葉遊びにしか思えません。
そもそも、小林は、14歳の時の廣松の文章など、麗々しく持ち出すべきではありませんでした。(太田)
「廣松がもともと物理学を志していたところから哲学の道に入ったのに対して、西田<幾多郎>もやはり数学と哲学との間で進路を迷い、諦めた方の数学とは死ぬまで趣味以上の付き合いをしている。要するに、二人とも理系に未練を残した文転組なのである。ともに独特の文体をもっ<ていたし、>・・・それに並行して独自の哲学的ディスクルス<(注1)>を発展させ、そのもとに多くの弟子を集め、それぞれ廣松学派、西田学派と呼ばれるような集団を形成したこと、これには二人の他人への気配りや面倒見などにおいて際立った性格が与っていると考えられる。弟子たちを相手にした廣松の長電話、西田の頻繁な手紙は有名である。」(26~27)
(注1)Diskurs(独)=discourse(英)=論議(日)
http://dict.tu-chemnitz.de/dings.cgi?service=deen&opterrors=0&optpro=0&query=Diskurs&iservice=
http://ejje.weblio.jp/content/discourse
⇒さすが、廣松の愛弟子だけあって、小林も、「漢語」の方はともかく、「ドイツ語を中心とする原語の多用」は厭わないようですが、困ったものです。(太田)
⇒物理学の演繹科学的側面・・鉛筆と紙だけでできる物理学(注2)・・に着目すれば、演繹科学としての哲学とは親戚関係にあるわけですし、数学は演繹科学の典型であって、数学と哲学とはオーバーラップする関係にあるわけですから、廣松も西田も、小林が文転、と仰々しく形容するほどの転身を行ったわけではありません。
(注2)「もともと日本には初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹さん、2人目の朝永振一郎さんに象徴される理論物理の伝統がある。「紙と鉛筆」の科学だ。」
http://shasetsu.seesaa.net/article/107764793.html
なお、小林も哲学者であることから、アングロサクソン世界において、哲学は、その否定形であるところの、哲学批判の形でしか現在存在していないこと(コラム#省略)に、彼は、口を拭っていますね。
それはさておき、廣松と西田が、いずれ劣らぬ人間主義者であった旨の小林の指摘は大変興味深く受け止めました。
それだけに、この本の中で後で焦点が当てられることとなる、廣松の思想の中核との関連からも、西田ばかりが引き合いに出され、和辻哲郎の人間(じんかん)思想への言及が、この段階で全くなされないことに、私は強い違和感を覚えました。(太田)
(続く)
小林敏明『廣松渉–近代の超克』を読む(その1)
- 公開日: