太田述正コラム#0364(2004.5.29)
<アブグレイブ虐待問題をめぐって(その2)>

 これは、アブグレイブで起こったことと瓜二つと言っていいほど似ています。
 似てはいるのですが、アブグレイブで起こったことの方が数等倍ひどい虐待でした(コラム#340)。
 このような違いがどうして生じたのかについては、
 ア 実験に参加したのは一流大学生でしかも精神的にも安定した人間24名(うち囚人役が10名)だったのに、実際の看守は雑多な平均的米国人で、精神的に問題を抱えていた人間もいた。
 イ 実験に参加したのは1名のアジア系を除いて全員白人であり、しかも実験参加者は看守役を含めやる気十分だった。これに対し、アブグレイブでは、看守達は米国人、囚人はイラク人であり、しかもアブグレイブ収容所はイラクゲリラの迫撃砲等による攻撃の対象にしばしばなっていたことから、看守達は囚人を憎んでおり、看守達の士気は低かった。
 ウ 実験では我慢できなくなったら実験から離脱することが認められていた。その上、虐待が余りに甚だしくなった時は、実験管理者が介入して実験を中止することになっていた。実際、この実験は6日間で中止された。アブグレイブでは、誰も「離脱」することはできなかったし、誰も「中止」を命じなかった。
といった説明を行うことができるでしょう。

 しかし、この30年前の実験の結果に対しては、様々な疑問が投げかけられてきました。
 まず、実験管理者によって鎖は最初から囚人役の片足につけられていたこと、頭からかぶって顔を隠す頭巾についても実験管理者が実験状況外であったトイレで全員にかぶらせることにしたこと、が看守役に対し、囚人役への虐待に鎖や頭巾を使うヒントを与えたことが指摘されています。
 より根源的な批判は、人間の行動が状況によって規定されてしまう、などということを認めるわけにはいかない、というものです。そんなことを認めれば、人間の自由意志が否定され、誰も自分の行動の責任を問われないことになってしまう、というのです。

 その後、何名もの米国の行動科学研究者によって、いかなる状況下においても、正しくない行動については、必ず何%かの人間が、上司や同僚の圧力に逆らって、その行動をとることを拒否することを明らかにしました(http://www.nytimes.com/2004/05/14/international/14RESI.html。5月14日アクセス)。
 また、最近スタンフォード大学での上記実験を再検証した英セント・アンドリュース大学のライチャー(Stephen Reicher)教授は、看守と囚人という役割が付与されると自動的に虐待が生じる・・状況が人間行動を自動的に規定する・・わけではなく、鍵となるのは、特定の状況に置かれた人々の集団文化とリーダーシップだ、ということを明らかにしました(http://www.taipeitimes.com/News/edit/archives/2004/05/15/2003155593。5月16日アクセス)。

 これらスタンフォード大学での実験結果に批判的な研究が正しいことを裏付けたのが、アブグレイブ事件が明るみに出るきっかけとなった動きです。
 アブグレイブでは、三人もの兵士が反旗を翻したのです。一人は虐待を行うことを拒否し、一人は虐待を行うことを拒否した上で上司に虐待の事実を申告し、一人は憲兵に虐待の事実を通報しました。そしてこの最後の兵士の行為が、事件が明るみ出るきっかけになりました。(NYタイムス前掲)
 兵士達が米国流の、状況に流されない個人主義的文化(ライチャー教授の言う「集団文化」)を身につけていたために、その中から反逆者が出現し、悪事が露見するに至ったということです。

 残された問題は、どうしてアブグレイブでの虐待が防止され、或いはもっと早期に中止されなかったのかです。それには、ライチャー教授の言う「集団文化」と「リーダーシップ」の両面からの解明が必要です。

(続く)