太田述正コラム#8042(2015.11.19)
<鄭大均編『日韓併合期ベストエッセイ集』を読む(その5)>(2016.3.5公開)
「朝鮮総督府博物館・・・設立に関する議案書類・・・によると博物館の細目に亘り寺内<(注4)(コラム#4327、4528、4604、4627、4792、4952、4967、5592)>さんの注文が青鉛筆で満面に記入され、係官の意見答書の貼紙に更に赤鉛筆で記入して、一博物館の創設に総督自らの関心の深いこと壮観である。
(注4)寺内正毅(1852~1919年)。「陸軍大臣(第15・16・17代)、外務大臣(第22・31代)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第22代)などを歴任した。・・・周防国山口<生まれ。>・・・閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学(駐在武官を兼務)・・・
明治42年(1909年)10月26日のハルビンにおける伊藤博文暗殺後、第2代韓国統監・曾禰荒助が辞職すると明治43年(1910年)5月30日、陸相のまま第3代韓国統監を兼任し、同年8月22日の日韓併合と共に10月1日、朝鮮総督府が設置されると、引き続き陸相兼任のまま初代朝鮮総督に就任した。なお、陸相兼任は第2次西園寺内閣の成立で石本新六が陸相に就任するまで続いた。朝鮮総督は天皇に直隷し、委任の範囲内に於いて朝鮮防備のための軍事権を行使し、内閣総理大臣を経由して立法権、行政権、司法権にわたる多岐な権限を持った。寺内は憲兵に警察を兼務させる憲兵警察制度を創始し、朝鮮の治安維持を行ったことなどに対して、後に武断政治と評価された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85
その内でも寺内さんの真意は、「朝鮮の古文化財は悉く朝鮮内に留め、特に学術的に正しい調査研究の結果を実物によって一般に観覧させ、朝鮮の歴史を正確にし、古代の工芸美術の優秀のものを展観して、新らしい美術工芸の刺激とし手本にすること」にあったことが諒解される。」(178、180・藤田亮策 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E4%BA%AE%E7%AD%96)
⇒日本語ウィキペディアには、「韓国国立中央博物館<は、>・・・1915年12月1日 – 朝鮮総督府博物館として設立。・・・1945年12月3日 – 朝鮮総督府から業務を引き継ぎ、国立博物館となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8
とあるのに、韓国の、朝鮮総督府博物館の後継たる、下掲の二つの博物館の日本語HPには、一切、その種の記述はありません。
国立中央博物館
http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=858
国立民俗博物館
http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=1926
ただでさえ、日本統治期を貶めたい戦後韓国の指導層にとって、初代朝鮮総督でしかも「武断政治」を行った寺内が、これほど心血を注いで朝鮮最初の本格的な博物館を創建したことなど、到底言及するわけにはいかないのでしょうね。(太田)
「<私、宇垣一成(注5)(コラム#2042、3560、3774、4274、4372、4377、4392、4624、4669、5002、5381、5569、7590、7645)が朝鮮総督として>赴任する前には、朝鮮はまず思想的に荒んで居り物質的に貧弱で、全く日本の足手まといとなって居り、財政の援助、民間投資等いくら金を入れても、入れ甲斐のないところだと云う風に伝えられ、議会も行政補充を打ち切ろうという情勢にあり、予算委員会などで、朝鮮放棄論などが飛び出してくる有様なので、中にはそんな厄介なところで重大な責任をもつのはやめたらどうかなどという忠告者がいた位だったのだ。・・・
(注5)「学校事務員として働いた後に上京し、成城学校を経て陸軍に入った。軍曹に昇進した宇垣は陸軍士官学校に入学した。・・・1890年・・・に陸軍士官学校(1期)を150人中11位で卒業、・・・1891年・・・に陸軍歩兵少尉に任官した。・・・1896年・・・に一成と改名している。・・・1900年・・・に陸軍大学校(14期)を39人中3位で卒業し恩賜の軍刀を拝領した。・・・<ドイツに2度留学。>・・・1927年・・・に朝鮮総督(臨時代理)に就任。・・・1931年・・・に<、今度は、自ら>予備役とな<った上で>、・・・1936年・・・まで再び朝鮮総督を務めた。朝鮮総督時代に「内鮮融和」を掲げ、皇民化政策を行った。一方で農村振興と工鉱併進政策を推進したが実効性には乏しく、宇垣の次に朝鮮総督となった南次郎の統治時代には農村振興政策は受け継がれなかった。また金の産出を奨励したものの、ほとんどの利益は日本資本が占め、朝鮮人にまで利益は行き渡ら無かった。ただし大谷敬二郎よれば、朝鮮人の間で歴代総督のなかで「朝鮮人のために尽くしてくれた唯一の総督」と宇垣が高く評価されていたと回顧している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90
⇒昭和期の戦前日本が、国会が国の基本政策を決定していたところの、民主主義的国家であったこと、を改めて実感させられます。
また、日本が、朝鮮を出血統治をしていたこと、それだけでも、朝鮮が日本の植民地・・本国に収奪される存在・・とは対蹠的な存在であったこと、を我々は銘記すべきでしょう。(太田)
<私の指導もこれあり、朝鮮人の>古来よりの歴史的習性ともいうべき、民族的懶惰性が次第に修正されかけて、勤勉の風習がつきはじめ、夫人の屋外労作まで現われて来るという有様(注。朝鮮では昔から洗濯以外、女は決して屋外では働かなかった)生活の改善、消費の節約、営農方法の改良、副業の奨励隣保共助等々、隣邦中国で蒋介石が四億の民衆に向い一時躍起になって叫んでいた「新生活運動」<(注6)>が、朝鮮の村々では逸早く実戦に移され、生活の安定から生れた余裕が、民族資本の結集にまで進んで行きかけたものだ。・・・
(注6)「この運動は「礼・義・廉・恥」という伝統的な道徳を基本的な精神とし、国民生活の「軍事化・生産化・芸術化(合理化)」を中心目標とし、「整斎(整然さ)・清潔・簡単・素朴・迅速・確実」を実施原則とし、それを「食・衣・住・行」、つまり人々の日常生活に具現化させることによって、近代国家の達成をめざしたものである。
新生活運動は、1934年2月に開始されてから49年1月蒋介石が下野するまで15年間にわたって行われた。中国近現代史上においてこれほど長く続けられた大衆動員運動は数少ない。」
https://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/law/syoukaiseki/browse.html
朝鮮の二宮金次郎<も、>各道の農山村にぼつぼつ出て来た。」(188、191・宇垣一成)
⇒このくだりは、宇垣の自画自賛と見るべきではなく、日本による統治が朝鮮人の抜本的意識改革をもたらした、と素直に受け止めるべきでしょう。
なお、蒋介石による新生活運動なるものを初めて知りましたが、思うに、日本で教育を受けた蒋によるところの、支那の日本化を目指した運動であった、と言ってよさそうです。
(「軍事化」等は、蒋介石が、縄文・弥生両要素からなる日本文明のトータルとしての継受を目指したことを示しています。)
毛沢東は、その推進を妨害したことになるところ、彼は、(蒋介石に張り合う魂胆もあって(?)、)日本化以外の方法で日本を出し抜くことを、累次、目論んだ後、結局、晩年において、この蒋介石の運動へと回帰することになるわけです。(太田)
(続く)
鄭大均編『日韓併合期ベストエッセイ集』を読む(その5)
- 公開日: