太田述正コラム#8044(2015.11.20)
<鄭大均編『日韓併合期ベストエッセイ集』を読む(その6)>(2016.3.6公開)
「朝鮮人仲間の購買力が殊に増大して、・・・書画骨董の類・・・<の>品物が全く払底といわれているこの頃」(223・安倍能成)
⇒安倍は、「1924年・・・には<欧州>留学をしている。帰国後、京城帝国大学教授となり、朝鮮の文化を詳細に検討し、日本人の朝鮮蔑視感情を諌めている。1940年・・・に、母校一高校長とな<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%83%BD%E6%88%90
というのですから、太平洋戦争が始まるまでに、満州と日本の内地に間に立地していた朝鮮においても、経済が高度成長を始めていたことが彷彿としてきます。(太田)
「40がらみの、背の低い中年の紳士が、満面<朱を注いだ>形容そのままの表情で車掌たちを睨み据えている。
「この恥知らずども! その人<(=金素雲)>をどうしようというのだ。
指一本触ってみろ、このわしが相手になってやる!」・・・
「…事の起こりをわしはこの目で見ている。
ゴミや虫ケラじゃあるまいし、金を払って乗ってる<朝鮮服を着ている>客を二本の指先でつまんだら、誰だって腹を立てるのは当たり前じゃないか。
悪かったら悪かったとなぜ素直に謝れんのだ。
きみたちは一体、どれほど立派な人間のつもりだ。
海山越えて遠い他国へ来た人たちを、いたわり助けは出来ないまでも、多勢をたのんで力ずくでカタをつけようという、それじゃまるで追剥ぎか山賊じゃないか。
そんな了見で、そんな根性で、きみたちは日本人でございと威張っているのか…」
殺気にみなぎっていた詰所が、しーんとして声一つ立てる者もない。
いままで歯ぎしりしていた私も、有難いのを通り越して、何か相済まない気持、謝りたい気持ちで一杯である。
その人は大通りの電車道まで私を連れて出ると、手をとりながらしみじみ言った。
「どうか許してやってくれたまえ、きょうのことは私が代わってお詫びをする。
これから先、またどんなイヤな思いをするかも知れんが、それが日本人の全部じゃないんだからね。
腹の立つときはこの私を想い出してくれたまえ。…」
子供をなだめるようにそういいながら、その人は私の手に一枚の名刺を握らせ立ち去った。–「日曜世界社長 西阪保治<(注7)>」
(注7)1883~1970年。「日本の牧師、伝道者、聖書学者。
生涯
1883年 – 大阪府生まれ。大阪中央郵便局勤務中回心。
1903年 – 河辺貞吉より受洗
1907年 – 大阪伝道学館に学ぶ。自由メソヂスト教会教職として淡路島福良へ。「日曜世界」創刊
1909年 – 大阪で日曜世界社設立。日曜学校用教材を出版、文書伝道に従事
1931年 – 聖書解釈をめぐり、馬場嘉市とともに自由メソジスト教会を除名され、自由キリスト教会を興す。のち大阪女学院理事長、新教出版社取締役などを歴任。「聖書大辞典」を編纂。
1970年 – 死去」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%98%AA%E4%BF%9D%E6%B2%BB
それから30年–、『聖書大辞典』の発行者である西阪氏のお名前は、今年になってからも何かの新聞の寄稿でお見かけした。
もう白髪の老人になられたに違いない。
しかし、その時の1枚の名刺は少しも汚れずに、いまも私の記憶の中に、真新しいままで保存されている。」(231~232・金素雲)
⇒この挿話は、日本人の朝鮮人差別がいかに例外的かつ微温的なものであったかを、むしろ示している、というのが私の見解です。
ところで、浅川兄弟や西阪のような、朝鮮人に対してとりわけ人間主義的に接した当時の日本人にキリスト教徒がしばしば登場することについてですが、西阪より一世代前の、やはりキリスト教徒になったところの内村鑑三(1861~1930年)(コラム#1437、1439、1897Q&A、4153、4475、6395、7425、7625、8024)が、人間主義の実践を唱えた日蓮に私淑していた話を前に紹介したことがあります(コラム#7625)。
その内村ら、明治期の知識人のキリスト教改宗者達に、これまた人間主義の実践を唱えた陽明学(コラム#7944、7989)の学徒が多かった、という話もしたことがあります(コラム#6395)。
私は、戦前の日本における、キリスト教への改宗者達やマルクス主義を信奉するに至った者達は、継受されたアングロサクソン文明、とりわけ資本主義によって、日本文明の人間主義性が部分的に損なわれるに至ったことに強い危機感を抱き、それぞれ、利他主義の実践を本旨とするキリスト教、人間主義社会への回帰を本旨とするマルクス主義、に惹かれた、と考えています。
彼らが押しなべて人間主義者であったが故に、前者の多くは、利他主義を阻害する面のある教会を厭って、キリスト教徒としては世界的には異例にも、無教会主義を唱え(コラム#7425)、また、後者の多くは、人間主義社会への回帰の手段としてプロレタリア独裁制という非人間主義の極致を必要悪として積極的に容認する正統マルクス主義(マルクスレーニン主義)を厭って、マルクス主義者としてはこれまた世界的には異例にも、無政府主義を唱えた(コラム#8030)のだ、と私は思うのです。
ちなみに、戦後において、この両者が同床同夢で拠ったのが社会党であり、戦後大政翼賛会体制の「ハト」派としての「重要」な役割を果たしたところ、この両者の勢力の衰退とともに社会党もまた消滅してしまったことを我々は知っています。(太田)
(続く)
鄭大均編『日韓併合期ベストエッセイ集』を読む(その6)
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