太田述正コラム#8056(2015.11.26)
<西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その1)>(2016.3.12公開)
1 始めに
 表記のような、「丸善」で買ってきた文庫本シリーズの第4弾(最終)です。
 なお、西沢淳男(1964年~)は、「法政大学文学部史学科卒業・・・同大学院人文科学研究科博士後期課程満期退学・・・「江戸幕府の代官制度と陣屋に関する研究」で博士(歴史学)。・・・専攻は日本近世史」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B2%A2%E6%B7%B3%E7%94%B7
で、現在は高崎経済大学地域政策学部教授(奥付)、という人物です。
2 代官の日常生活
 「現実はともかくとして、代官とは悪いことをして処罰されるものだという認識が<江戸時代>当時からあったことは否めない。
 だが、はたして江戸時代に無能な悪代官が蔓延していたのか、むしろよい代官が多いということが本書のテーマである。
 もちろん悪代官は皆無とはいえないが、江戸幕府の礎を築いたのも代官であり、財政基盤を支えたのもまた代官である。
 代官が悪政をつづければ全国で一揆が頻発したはずであり、全国400万石に及ぶ幕府直轄領・・・を270年もの間維持し得なかったであろう。」(13)
⇒このくだりで、当たり前ではないか、そんな本なら読む必要などなさそうだ、という気がしたのですが、何か、私が知らなかった面白い話が出てくるかもしれない、と思い直して、読み進めることにしました。(太田)
 「代官の職務は、大別すると、地方(じかた)という年貢徴収他民生一般事務と、公事方(くじかた)という警察および裁判事務にわけることができる。
 地方の中心は「御取箇筋御為第一」、すなわち課税と徴税である。・・・
 ・・・代官の裁量は狭く、恣意的な徴税は制度上はできなくなっていた。
 まず坪刈という一間四方(約3.3m2)の米を収穫して検査をおこない、そのうえで土地柄や村柄に応じて課税するように規定されていたのである。
 また、よく四公六民<(注1)>といわれるが、村高に単純に40パーセントをかけたものを年貢とするのではなく、川欠といった堤防決壊などにより荒廃した場合にはさまざまな名目の「引」という控除がなされたり、村の共有施設である郷蔵屋敷なども控除されていた。
 (注1)「享保の改革<の時、>・・・倹約と増税による財政再建を目指し、農政の安定政策として年貢を強化して五公五民に引き上げて、検見法に代わり豊凶に関わらず一定の額を徴収する定免法を採用し<た。>・・・この結果、人口の伸びは無くなり、一揆も以前より増加傾向になった。次の家重時代には、建前上は五公五民の税率は守られたが、現場の代官の判断で実質的な減税がなされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
 そのため、実際の年貢はさまざまであり、一様にはいえないが、村高の2割程度になっていた。」(22~23)
⇒西沢は「2割程度」の典拠を示していませんが、仮にそうだとすると、必要経費や損金を控除した、いわば付加価値の40%を財政支出にあてた、と読み替えれば、江戸時代は国民負担は、現在(2014年)の日本
http://ecodb.net/ranking/imf_ggx_ngdp.html
と、奇しくも全く同じ程度であった、ということになります。(太田)
 「一方、公事方は裁判関係が主である。・・・
 代官には当初裁判権はなく、1794(寛政6)年になってようやく敲<(注2)>刑(たたきけい)(博奕(ばくえき)を摘発した際の刑罰)といった軽犯罪については手限仕置権(てぎりしおきけん)という自己の裁量で決裁できる権限が与えられた。
 (注2)「江戸時代,庶人男性に科せられた刑罰の一つ。罪民を箒尻 (ほうきじり) で「敲」いて放免する刑。享保5 (1720) 年耳切 (みみきり) ,鼻そぎの刑に代えて設けられたもので,律の笞杖を復活したものというよりも,明,清律を模倣したものとみられる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%95%B2-93391
 しかし、これ以外は軽微な事件であっても、必ず口書を作成したうえで勘定所へ上げて決済を仰がなくては判決の申し渡しはできなかった。
 これは、公事出入(くじでいり)という民事事件についても同様で、吟味については日数がかからないようにし、落着(裁決)・仕置(処罰)などは奉行へ伺いのうえで申し渡すこと、内済(和解)にする場合も伺いのうえ申し渡すこととされ、公事出入の吟味は6ヵ月を超えないようにし、吟味が手間取り6ヵ月を超えるようなら趣意書を届け出るように規定されていた。・・・
 <つまり、>代官の仕事<は、何であれ、>・・・稟議と、場合によって根回しが必要であ<り、まさに、>・・・日本型官僚制の原点であ<った。>」(24~25)
⇒日本型官僚制の原点というより、江戸時代の官僚制は、近代官僚制、しかも、良質のそれ、そのものであった、というべきでしょうか。(太田)
 「以上のような代官の執務は、原則、全国に点在する幕領に置かれた陣屋<(注3)>へ赴任しておこなった。・・・
 (注3)「一般的に3万石以下の城を持たない大名が陣屋を持った、また上級旗本も知行地に陣屋を構えた。さらに大藩の家老の所領地である知行所の政庁が置かれた屋敷も含まれる。飛地を所領に持つ大名が、現地の出張所として陣屋を設置することもあった。また、箱館奉行所や長崎奉行所なども陣屋として扱われることがある。さらには幕府直轄領地である支配所に置かれた代官所を含む場合もある。領主の領地の居地をあらわす用語は、城主の居城に対して、陣屋を居地とする場合は在所という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E5%B1%8B
 陣屋は地域住民の生活を守るシンボルであるとともに、雇用や流通、諸商売など経済的メリットをもたらした。
 そのため、各地で陣屋誘致合戦や廃止された陣屋の復活運動などがしばしばみられた。」(28)
⇒幕府が、いかに、「人民のため」の善政を敷いていたか、が伺える話ですね。(大田)
(続く)