太田述正コラム#0366(2004.5.31)
<アブグレイブ虐待問題をめぐって(その4)>
イ ポルノ文化
それにしても、日本の旧軍や自衛隊がアブグレイブ収容所を管理したとしたら、たとえ囚人に対する虐待が起こったとしても、あんな形の虐待になるとはちょっと考えられないと思いませんか。
あんなおどろおどろしい虐待が起きたのは、米国のハードコアポルノ文化の影響だ、という指摘がなされています。
確かに、写真にあえて撮ったり、(日本等のポルノとは違って)愛情表現も情緒も皆無で、もっぱら強者が弱者に暴力的な性交(性交もどき)を強要し、その性交(性交もどき)が延々と続く、というところはアブグレイブでの虐待は米国のハードコアポルノ生き写しとさえ言えそうです。
(以上、http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,1222393,00.html(5月21日アクセス)による。)
ウ 暴力的社会
虐待を加えている側も写真に写っていることに着目する指摘もあります。
写真や映画が大好きだったナチスドイツでさえ、ポーランドやロシアでの蛮行やユダヤ人のホロコーストの場面の中に手を下したドイツ人が登場することは殆どありません。
ただちに思い起こされるのは、1880年代から1930年代にかけてたびたび起こった、米国での黒人リンチ殺人の際に裸で首に縄をかけられてぶらさがったまま息絶えている黒人の傍らで白人達が笑みを浮かべて写っている沢山の写真です。これらの写真は、完全に正当な集団的行為の成就を記念して撮られたものです。アブグレイブでの虐待写真は、黒人リンチ写真同様、「異質」な弱者に対してこの上もなく暴力的な米国社会の写し絵だというわけです。
(以上、http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,12271,1223344,00.html(5月24日アクセス)による。)
エ 植民地主義
これは説明するまでもないでしょう。アブグレイブでの虐待は、米国がこれまでフィリピン等でやってきたこと(注4)の焼き直しだというのです(http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,1222393,00.html前掲(注5))。
(注4)米国によるフィリピン戦争(1899??1902年)とイラク戦争(2003年??)は極めてよく似ている。どちらも米国が攻撃を受ける恐れのない「国」に対して一方的に介入して現地政府を転覆した戦争だし、在来型戦争による「征服」が速やかに終わってから長期にわたってゲリラとの戦いが続いたのも同じだし、ゲリラ側が山賊、テロリスト呼ばわりされたのも、拷問を含め、現地一般住民の生命財産に多大な損害を与えた点も同じだ。また、米軍の死傷者数がフィリピン戦争が7,192名であったのに対しイラク戦争では現在5,400名超であるのも似通っている。(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A3022-2004May30?language=printer。6月1日アクセス)
(注5)米国のポルノ文化や植民地主義を批判したこの英国人による論考が、高みに立って他人を批判するばかりで自己批判がないと批判した、別の英国人の論考まである(http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1223994,00.html。5月26日アクセス)。興味深いのはこれらの英国人が、完全に自分達を米国人に自己同一化してアブグレイブ問題を論じていることだ。これはアブグレイブ虐待事件をアングロサクソン共通の恥として英国人や米国人が受け止めていることを示している。
(5)米予備役兵の質の低さ
アブグレイブでの虐待の実態を明らかにしたタグバ少将の調査報告書には、看守たる兵士達のあきれた行状が赤裸々に描かれています。
ある大尉は、女性兵士達のヌードの盗撮を趣味にしていましたし、もう一人の大尉は銃器の扱い方という最低限の訓練を部下に対して施すことを怠っていました。看守の元締めの准将(女性)と、囚人の尋問に当たっていた諜報部隊の部隊長たる大佐との間のコミュニケーションは殆どなく、アブグレイブ収容所における関係部隊の権限と責任は明確でなく、関係部隊の長相互間の調整も不十分でした。
この元締めの准将は極度に感情的な人間であり、アブグレイブ等彼女の隷下の収容所を殆ど訪問せず、部下の一般兵士と接することもまずありませんでした。また、彼女の部下でアブグレイブ収容所の所長格であった中佐は全く無能であり、部下の少佐が仕方なく彼の代わりを務めていました。
元締めの准将の参謀たる二人の少佐は殆ど機能していませんでしたし、同じく部下であった法務官の中佐は、積極性ゼロで責任を回避ばかりしている人物でした。
看守達の多くはアブグレイブ内を平服でうろついていましたし、日誌には訳の分からない記述や感想が書き連ねてあり、ヘルメットには詩や格言が書き殴られていました。本来の指揮命令系統は無視され、仲良し同士がつるんで仕事をしていましたし、将校への敬礼は時たまにしか行われませんでした。
(続く)