太田述正コラム#8064(2015.11.30)
<西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その4)>(2016.3.16公開)
「1792(寛政4)年になり「学問吟味」<(注14)>という試験制度が導入され、以降1868(慶応4)年まで計19回実施された。
(注14)「江戸幕府が旗本・御家人層を対象に実施した漢学の筆答試験。実施場所は聖堂学問所(昌平坂学問所)で・・・実施された。試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に気風を行き渡らせることであったが、慣行として惣領や非職の者に対する役職登用が行われたことから、立身の糸口として勉強の動機付けの役割も果たした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
これは試験といっても学業出精者への褒章制度であり、及第は甲科・乙科・丙科の成績で示され、資格試験的な現在の国家公務員試験と同様に「及第」=「就職」というものではなかった。
しかし、実際はどうであったかというと、1891(明治24)年になって元学問所勤番組頭であった石丸三亭が語ったところによれば、「出世に関係するから、あすこを及第すると履歴になりますからナ」(『旧事諮問録』)との証言をしているように、甲科・乙科及第者は優先登用する慣行があった。
たとえ丙科で及第しても、内試という部屋住学問試受験<(注15)>のための予備試験を免除された。・・・
(注15)「旗本の惣領の番入りにあたっての学問審査は、「部屋住学問試」といわれ、昌平坂学問所での予備審査を「部屋住内試」、若年寄役宅での本試験を「若年寄見分」と称したという。」
http://sito.ehoh.net/bankatatouyou3.html
「御番入り<とは、>江戸時代、非役の小普請や部屋住みの旗本・御家人が選ばれて、小姓組・書院番・大番などの役職に任じられること。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E7%95%AA%E5%85%A5%E3%82%8A-503803
「小普請<とは、>江戸時代、禄高三千石未満の旗本・御家人のうち、非役の者の称。小普請支配に属する。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%99%AE%E8%AB%8B-65908#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
「部屋住み<とは、>家督相続前の嫡男。また、次男以下で分家・独立をせず、親または兄の家にとどまっている者。」
https://kotobank.jp/word/%E9%83%A8%E5%B1%8B%E4%BD%8F%E3%81%BF-625587#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
現代は誰の子弟であろうと公務員試験にパスしていなければ公務員となることはできないが、たとえば外務省では前提として公務員試験にパスしているということがあったとしても、幹部の子弟が候補者名簿のなかから優先的に採用されている現実もあり、ある意味では選考材料に父親の勤功がふくまれている江戸の慣習が脈々とつづいているともいえる。
⇒西沢のこの指摘に首肯したいところではあるものの、「かつては外務省は、国家公務員採用Ⅰ種試験ではなく独自の「外務公務員採用Ⅰ種試験」(いわゆる外交官試験)によりキャリアを採用していた<ところ、>・・・合格者の中に他省庁と比較して外交官<(OB)>の子弟が多いことや、外交官が特権意識を抱きがちなことが問題視され、それらのことと外交官試験が独立していることとの関連が指摘され続けた。2001年より、外務キャリアは他省庁と同様に旧国家公務員採用Ⅰ種試験合格者から採用され<ることになった>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%85%AC%E5%8B%99%E5%93%A1)#.E5.A4.96.E5.8B.99.E7.9C.81
、ということからして、この指摘は、少なくとも、今や、的外れです。
もっとも、私自身は、日本の国立大学の大学入試も国家公務員試験/中央官庁の採用試験も、どちらも、広義の、かつ良い意味での「情実」のなさ過ぎが問題である、と思っています。(太田)
代官は、家筋でいえば<前述の>Cの技術系コースにふくまれるが、・・・多くは勘定所関係職員からの異動であったため、公開の筆算吟味ではなく内部選考であったと思われる・・・」(50、52~53)
⇒学問吟味は、その試験場から見ても、また、部屋住学問試は、その実例
http://sito.ehoh.net/bankatatouyou3.html 前掲
から見ても、試験内容は儒学であったわけですが、この実例からすると、経世済民に係る良問が出されていたようであり、現在の国家公務員試験が法律職中心で、当然のことながら、彼らには法学に係る試験問題が課されていることより、ある意味合理的かつ「近代的」であった、とも言えそうです。
いずれにせよ、高級官僚任用制度一つをとっても、明治維新より前の日本と後の日本とでは、前者は、(誰でも、うまく運べば2世代で対象者入りが果たせたとはいえ、)対象者が限定されていたこと、と「情実」が加味されたこと、はさておき、我々が通常認識しているよりもはるかに継続性がある、という感を深くします。(太田)
「出世する人の条件–久保田政邦の例・・・
久保田は、・・・徒目付から代官へ昇任し・・・勘定吟味役に栄転し・・・佐渡奉行・・・<、そして、>勘定奉行に抜擢され<た人物だが、>・・・出世しても応対も変わらず、・・・篤実者との評判で・・・辛労で倒れなければと心配されるほどの働きぶりで、毎晩深夜11時頃まで残業もこな<すという>・・・実直<さだった。>」(60~61)
⇒「毎晩深夜11時頃まで残業」とは、吹き出してしまうほど、現在の中央官庁のキャリア官僚の勤務実態と同じですね。(太田)
「代官として勤めるには屋敷の改造費や引っ越し費用などをふくめて2000両余もかかり借金となる。
しかも部下に悪い者がいれば・・・年貢に負債ができて、・・・負債返済のめどが立たなければ島流しや御家断絶となるので、能力のない人間では勤まらない」(71)
⇒自分の給与の中から官舎の修繕・リフォーム費用や引っ越し費用をねん出しなければならず、また、部下の不法行為の雇用者責任も個人で追わなければならない、という点は、現在の役人とは大違いであり、大変な厳しさですね。(太田)
(続く)
西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その4)
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