太田述正コラム#8066(2015.12.1)
<西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その5)>(2016.3.17公開)
 「徳川家康<により、>・・・畿内・・・では、豪商である京都の角倉玄之(すみのくらはるゆき)(素庵(そあん))<(注16)>と木村勝清<(注17)>、宇治郷の上林勝永(徳順)<(注18)>、堺の今井兼久(宗薫)<(注19)>、大津の小野定則<(注20)>、大阪の末吉利方<(注21)>が代官に登用された。
 (注16)1571~1632年。「角倉了以の長男。父の朱印船貿易や,河川開発事業を継承。一方,藤原惺窩(せいか)に儒学をまなび,林羅山(らざん)を惺窩に紹介。本阿弥光悦らと豪華な嵯峨(さが)本を出版し,能書家としても知られた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A7%92%E5%80%89%E7%B4%A0%E5%BA%B5-18600#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus
 「角倉家の本姓は「吉田氏」。佐々木氏の分家であるという。・・・<父の>角倉了以<は、>・・・朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。また幕命により富士川、天竜川等の開削を行った。地元京都では商人と言うより琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%80%89%E4%BA%86%E4%BB%A5
 「佐々木氏<は、>・・・家系は宇多源氏の流れを汲む、源成頼の孫・佐々木経方を祖とする<名門>一族。」尼子、黒田、京極、佐々家や、杉田玄白、間宮林蔵、大山巌、前原一誠、乃木希典らを輩出した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E6%B0%8F
 (注17)不明。
 (注18)不明。
 (注19)1552~1627年。「茶人今井宗久の子。・・・豊臣秀吉に御伽衆として仕えた。秀吉没後は徳川家康と接近し、松平忠輝と伊達政宗の娘五郎八姫の婚約成立に尽力したが秀吉の遺命に逆らうものであるとして批判された。その後は江戸幕府に仕え、大坂の陣で堺は被害を受けた。朱印船を多く派遣している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E5%AE%97%E8%96%AB
 「祖は近江源氏佐々木氏で、近江国高島郡今井市城を領したので、氏を今井と称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E5%AE%97%E4%B9%85
 (注20)不明。
 (注21)1526~1607年。「豊臣秀吉につかえ河内(かわち)の代官をつとめ,廻船業もいとなむ。関ケ原の戦いでは東軍に味方し,徳川家康から伏見銀座の設立を許可され,頭役となった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%AB%E5%90%89%E5%88%A9%E6%96%B9-1083429
 後漢の霊帝であるところの、征夷大将軍を務めた坂上田村麻呂
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%BA%BB%E5%91%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E8%8B%85%E7%94%B0%E9%BA%BB%E5%91%82
「の次男で、摂津国住吉郡平野庄の開発領主となり「平野殿」と呼ばれた坂上広野のひ孫の秋田城介権守坂上行松(ゆきます、平野行増)が祖と伝わる」のが末吉氏である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E6%B0%8F
 これは、年貢米の売却と流通の円滑化のためであった。・・・
 このほか、長崎貿易のために長谷川藤広<(注22)>、村山等安<(注23)>、末次政直<(注24)>らの豪商が長崎代官に登用されている。
 (注22)1567~1617年。「はじめ父と共に北畠具教、長野具藤に仕える。その後、慶長8年(1603年)より徳川家康に仕え、同11年(1606年)に江戸幕府長崎奉行にな<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E8%97%A4%E5%BA%83
というのだから、西沢の勘違いではないか。
 (注23)?~1619年。「長崎町衆の1人として朱印船貿易商とな<る>・・・。また、イエズス会士により洗礼を受けアントン(Antao、または Antonio アントニオ)と称した。文禄元年(1592年)、文禄の役の際に名護屋に在陣していた豊臣秀吉に謁見し、長崎の地子銀25貫を納めさせる代わりに、御免地(地子御免除の特別地域)以外の直轄地を預かる長崎代官になりたいと願い、許可された。さらに秀吉は、彼の洗礼名アントンを元にした「等安」という名を与え、以後この名に改めるように命じた。秀吉の死後も、外町(御免地を「内町」と呼び、それ以外の地を「外町」と称した)を村山が代官として支配していた。慶長9年(1604年)の正月にイエズス会のジョアン・ロドリゲス神父とともに伏見で徳川家康に謁見し、引き続き長崎の代官となることを追認された。
 元和2年(1616年)には台湾(高砂国)征討のため、次男村山秋安を司令官とする13隻の船団を台湾に派遣したが、これは暴風のため失敗に終わった。・・・
 ・・・キリシタンを擁護したことと大坂方と通じたという嫌疑で、元和5年(1619年)・・・江戸で斬首、一族も長崎で処刑された。・・・
 大坂方と通じた嫌疑とは、大坂夏の陣の時、等安が息子の1人に浪人を添えて大坂城に石火矢や玉薬を運び込ませたこと、またキリシタンでドミニコ会系の司祭であった三男フランシスコ等安が流罪になったのを、密かに長崎港外の高鉾島で下船させ、豊臣方として加勢に送りこんだというものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E5%B1%B1%E7%AD%89%E5%AE%89
 (注24)1546?~1630年。「平戸出身の博多の豪商末次興善の次男として生まれ、元亀2年(1571年)に長崎に移住。朱印船貿易・・・を行う。・・・
 「ジョアン」という洗礼名を持つキリシタンだったが、キリシタン禁教時代には棄教して仏教に転宗し・・・キリシタンの弾圧に手を貸す。そしてキリシタン探索の目明を各地に派遣し、キリシタンを公職から追放した。・・・
 タイオワン事件(ノイツ事件)を起こし<た後>、寛永7年(1630年)に江戸の牢獄に幽閉され、幕臣により斬殺される。幽閉・斬殺された<真の>理由は、幕府の重臣が禁止されている貿易に手を出していたことを知ったためとされるが、詳細は不明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%AC%A1%E5%B9%B3%E8%94%B5
 タイオワン事件については、下掲参照。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AF%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 長谷川藤広は後の長崎奉行のような立場であった。
 村山等安は秀吉以来の代官であったが、キリシタンであったこともあり、末次政直の策略にあって<斬罪>となり、その後任に政直がおさまった。
 商人のほかに、秀吉以来琵琶湖の湖上交通を司っていた近江国芦浦の観音寺(西川家)<(注25)>や遠江国中泉の府八万宮神官秋鹿(あいか)家<(注26)>も代官に登用されるなど、バラエティーに富んでいた。
 (注25)西川利右衛門 (初代。1590~1646年)は、「元朝倉氏の家臣で木原と称していたが、主家滅亡後蒲生郡市村に居住し西川氏の養子となった。
 初代利右衛門は勘右衛門の長男として蒲生郡市村に生まれた。当初は父の名より勘右衛門数政と称していたが、市村より<近江>八幡新町に居を移し、利右衛門と改名した。利右衛門は一匹の馬を購入し、馬に多くの荷駄を載せ東海道を江戸迄往復し畳表・縁地・蚊帳等の行商を行った。行商を基に蓄財し、大阪瓦町に出店を設け近江屋八右衛門と称し、その後江戸日本橋にも出店を設け大文字屋嘉兵衛の名義を用いた。
 信用第一とした商売は評価され、終には江戸城本丸及び西の丸の畳替えを一手に引き受けたことから、益々畳表・縁地・蚊帳において世の中より高い信頼と評価を得ることが出来、家政は隆盛を極めた。当時江戸日本橋通り近江商人が出店していた店を全て近江店と称されていたが、その中でも大文字屋は最も繁盛していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E5%88%A9%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)
 なお、「観音寺」は、どちらも近江八幡にある「観音正寺」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E6%AD%A3%E5%AF%BA
と「観音寺城」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E5%9F%8E
の名称を西沢がごっちゃにしたと思われるが、そもそも、「観音正寺」も「観音寺城」も西川家と直接の関係はなさそうだ。
 この本の他の記述も、事実関係については、全面的に信用しない方がよさそうだ。
 (注26)「秋鹿氏の祖は橘諸兄といい、二十代の後裔出雲守朝芳が出雲国秋鹿郡に住し、その地名をもって秋鹿を称した。・・・
 朝芳の四代の孫朝慶は、鎌倉将軍頼経に仕え、その一族に列して藤原に改めた。そして、朝慶から六代にあたる左京亮朝治のとき、南北朝の争乱に遭遇し、朝治は足利尊氏に仕え、遠江国羽鳥庄の貴平郷、中泉郷、南郷の地頭に補された。以後、代々中泉に住し、ある時は武将として、ある時は代官として、また府八幡宮の神官として活躍した。
 室町時代になると、遠江守護の今川氏に仕え、地頭職とともに、府八幡宮の神主を勤めた。
 戦国時代、朝兼は今川氏親に仕え、その子の朝延は今川義元に仕えた。朝延が弘治三年に没すると、直朝が家督を継ぎ、天正十八年の「小田原の陣」に随従し、家康が関東に転封されると、常陸国に住した。慶長五年、関ヶ原の合戦ののち、遠江国の旧領を賜り、府八幡宮の神職となり、中泉に住して代官を務めた。以後、子孫は徳川旗本として続いたが、朝就の代より、府八幡宮神主に専従した。」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aika_kz.html
 橘諸兄(684~757年)は、「奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E8%AB%B8%E5%85%84
⇒徳川時代創世期の民間人活用・・とは言っても、純粋民間人は少ないが・・ぶりに興味をそそられ、これらの多士済々の人々について、遡れるところまで、それぞれの先祖を辿ってみる、という道草をしました。
 天皇を先祖に持つ人々が多いこと、そのうち、佐々木氏は、長い時代にわたって多岐にわたる人材を輩出してきたこと、また、坂上田村麻呂が支那の漢の皇室を先祖に持っていてそのはるか後代の子孫も「活躍」したこと、等に瞠目させられました。
 いずれにせよ、創世期の時から、徳川時代は、身分社会なんぞではなかった、ということですね。(太田)
(続く)