太田述正コラム#8068(2015.12.2)
<西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その6)>(2016.3.18公開)
「堀田正俊<(注27)>は、関東の代官・・・への「職務訓令七ヵ条」・・・を発した。
(注27)1634~84年。老中の堀田は、「延宝8年(1680年)、<徳川>家綱の死去にあたり、家綱政権時代に権勢をもった大老・酒井忠清と対立して家綱の異母弟である綱吉を推したという。綱吉が5代将軍に就任<した後の>・・・天和元年(1681年)12月11日、忠清に代わって大老に任ぜられる。就任後は牧野成貞と共に「天和の治」と呼ばれる政治を執り行ない、特に財政面において大きな成果を上げた。
しかし貞享元年(1684年)8月・・・、従叔父で若年寄の美濃青野藩主・稲葉正休に江戸城内で刺殺された・・・。幕府の記録によれば発狂のためとされているが、事件は様々な憶測を呼び、大坂の淀川の治水事業に関する意見対立や、正休もその場で殺害されていることから、将軍綱吉の関与も囁かれた。・・・
正俊が暗殺される直前に綱吉は生類憐れみの令を布くことを表明しており、正俊はこれに反対していた。また、正俊には綱吉を将軍に就任させた功績があり、大きな発言力を持っていたと推測される。そのため両者の間に溝が生まれたことから、「綱吉による陰謀説」がある。またこの事件以降、綱吉は奥御殿で政務を執るようになり、老中との距離が生じた。そのため、両者を連絡する柳沢吉保・牧野成貞ら側用人が力を持つこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%BF%8A
この第1条には、「民は国之本也、御代官之面々常に民の辛苦を能察し、飢寒等之愁これ無き様ニ中付<(ママ(太田))>あるべき事」とある。
農民は国の本であるので、代官はつねに農民の難儀を思いやって、飢えと寒さの心配がないようにしなさいというもので、これ以下の条もふくめ、これまでの訓令とは異なる、綱吉<(注28)>の意向らしい、すなわち儒学的訓戒といった意味合いの強い七ヵ条であった。」(80~81)
(注28)1646~1709年。「綱吉は・・・積極的な政治に乗り出し、「左様せい様」と陰口された家綱時代に没落した将軍権威の向上に努めた。また幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらった。荻原重秀もここから登用されている。また外様大名からも一部幕閣への登用がみられる。
また、戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。・・・綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立・・・歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査の上、修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公家達の所領についてもおおむね綱吉時代に倍増している。
・・・綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳洲・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなり、この時代に儒学が隆盛を極めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89
⇒鍋島氏の家老だった成富茂安(なりどみしげやす。1560~1634年)(注29)が、既に、「民は国の本」という言葉を残しています
https://books.google.co.jp/books?id=9cFM3vyVMGcC&pg=PA37&lpg=PA37&dq=%E6%B0%91%E3%81%AF%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%9C%AC&source=bl&ots=7aAyUWuUd4&sig=uVjK17T67lzEpKjZ66tMUVJlrJA&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwic0Oqf7rzJAhUBxJQKHWqWBXQ4FBDoAQgdMAE#v=onepage&q=%E6%B0%91%E3%81%AF%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%9C%AC&f=false
が、彼が儒学の影響を受けた形跡はなく、むしろ、(親交があり、やはり治水事業で名高い加藤清正同様、)日蓮宗の信者であった(上掲、及び、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%A1%8C%E5%AF%BA_%28%E4%BD%90%E8%B3%80%E5%B8%82%29 )ことからして、同宗の唱えるところの、人間主義普及・実践を体現したからこそ、この言葉を残した、という風に私には見えます。
(注29)「慶長8年(1603年)、武蔵国江戸に幕府が開府されると、江戸の町の修復や水路の整備を行う。またこの頃、山城国二条城、駿河国駿府城、尾張国名古屋城、肥後国熊本城などの築城にも参加、この経験を肥前国佐賀城の修復に生かした。・・・
慶長15年(1610年)から没するまで、水害の防止、新田開発、筑後川の堤防工事、灌漑事業、上水道の建設など、本格的な内政事業を行っている。茂安の手がけた事績は、細かい物も入れると100ヶ所を超えるともいわれ、300年以上たった現在でも稼働しているものもある。民衆や百姓の要望に耳を貸す姿勢は、肥前国佐賀藩の武士道の教書でもある『葉隠』に紹介されており、影響を与えた。
寛永11年(1634年)、75歳で死去。家臣7人が殉死したという。・・・
茂安の内政手腕は明治時代になって、明治天皇にも大いに賞賛されることになり、従四位を追贈されることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%AF%8C%E8%8C%82%E5%AE%89
「成富・・・は四千石の立派な家老の地位にありながら、工事場に小屋掛けして人夫に湯茶を用意し、雨の日も人夫と一緒にそこに泊まり込んだ。」と言い伝えられている。
http://blog.livedoor.jp/ijinroku/archives/51808910.html
この私の見方が正しいとして、当時、既に有名であった成富の言葉を、日蓮宗同様、法華経を根本法典とする天台宗(注30)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
の宗徒であった堀田
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9A%E5%A4%A7%E5%AF%BA
が借用した、と考えられるのであって、そうだとすれば、西沢の指摘は正鵠を射ていない、と言うべきでしょう。(太田)
(注30)天台宗と日蓮宗の法華経解釈の違いが分かり易く説明されている。↓
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1017766705
要するに、天台宗は人間主義者になることを、日蓮宗は人間主義の普及・実践を、それぞれ主眼とした、ということだ。
天台宗は支那のそれの直輸入であり日本人にとっては基本的に無意味な宗派であるのに対し、日蓮宗は、日本人にふさわしい、独自の宗派である、と言ってよかろう。
「綱吉は傍系から出た<(注31)>将軍であるが故に、自らの新しい御輿を担ぐ主体を造る必要があった・・・。
(注31)家光の子であったところの、長兄は第4代将軍になったが世継ぎができず、二兄は夭折、三兄も若くして亡くなったことから、一旦松平姓を名乗って上野館林藩主になっていた、4男の綱吉が第5代将軍になった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E4%BA%80%E6%9D%BE
江戸幕府成立から100年間、中世以来の在地土豪の系譜をひく代官、幕初以来特定認知に固定化された代官、そうした在地に深く根ざした年貢請負人的代官を個人の資質にかかわらず、いったんリシャッフルをして在地と繋がった根を断ち切ることによって、勘定所から封建官僚(多くは綱吉館林藩主時代の家臣)を地方官として派遣し自由な配点を可能とした。
結果、将軍の意向を直接民政に反映できるようになったのである。」(84)
⇒綱吉は、土豪割拠の第一次弥生モードの時代を、第一次縄文モード(平安)時代の官僚制的なものを回帰的に導入することによって終わらせた、と見ることができるのではないでしょうか。(太田)
(続く)
西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その6)
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