太田述正コラム#8070(2015.12.3)
<西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その7)>(2016.3.9公開)
「大岡忠相といえば一般に町奉行としてのイメージしかもたれないであろう。
じつは、彼のもう一つの顔として「関東地方(じかた)御用掛」<(注32)>の兼帯があった。
(注32)「享保期、財政難に直面していた江戸幕府は、幕府領の耕地拡大による年貢米の増収を図り、享保7年(1722年)7月26日、日本橋に新田開発奨励の高札を立てた。同年6月、南町奉行の大岡忠相と北町奉行の中山時春は、関東地方御用掛の兼任を命じられる。
享保8年(1723年)6月29日、中山時春が町奉行職を辞すると同時に地方御用の役も御免となったため、以後は大岡が1人で務めることとなる。
大岡と中山の地方御用掛就任に伴い、南北両町奉行所に地方改め(じかたあらため、地方御用とも)が設けられ、与力1騎と同心2人がこの職に就いた。が、享保8年に中山が御用掛から離職するに伴い、大岡の南町奉行所のみの職務となった。
御用掛である大岡の職務には、支配所で発生した公事(民事裁判)の裁許も含まれていた。新田場に関する願や訴訟出入の吟味などは「大岡番所」でおこなうこととなっていたが、元文5年2月13日に大岡支配の三代官・・・の支配地における公事・訴訟はそれまで大岡1人で取り扱っていたが、刑事事件は別として農政に関する事柄は評定所一座で討議することとなる。
御用掛の主な活動地域は武蔵野新田だったが、それ以外にも小田原藩の酒匂川流域や上総国東金領の開発・治水・普請も行った。他、青木昆陽が効能を広めたサツマイモを関東に定着させようとした際、大岡は配下の役人たちが支配する村々にまずこれを栽培させている。
大岡は地方御用掛を遂行するため、様々な人物を配下の役人として登用する。それは幕臣に限らず、在野の浪人や宿場名主<や猿楽師>など多様で、特に地方巧者<(じかたこうしゃ)>と呼ばれる治水・灌漑に長けた者たちが多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%BE%A1%E7%94%A8%E6%8E%9B
評定所は、「江戸城外の辰ノ口(現在の千代田区丸の内一丁目4番南西部。・・・)にあり、幕政の重要事項や大名・旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関で、町奉行、寺社奉行、勘定奉行と老中1名で構成された。これに大目付、目付が審理に加わり、評定所留役が実務処理を行った。とくに寺社奉行・町奉行・勘定奉行は三奉行と呼ばれ、評定所のもっとも中心になる構成員であり、寺社奉行4人、町奉行2人、公事方の勘定奉行2人を「評定所一座」と称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95%E5%AE%9A%E6%89%80
本来勘定奉行の職責である関東農政の一端を担っていたのである。
そして、忠相を「御頭」と仰ぐ当初5人からなる異色の代官集団がいた。
彼らは、幕領支配を担っていたにもかかわらず勘定奉行ではなく、町奉行に直結し、享保改革の目玉の一つであった新田開発を担当した。・・・
このように、従来の「老中–勘定所–代官」と「将軍–地方御用掛–代官」という二系統を一種競合させることにより、享保改革の柱である新田開発がおこなわれ、地方巧者としての実績が有れば民間からも登用していったのである。
この人材登用策を従来の行政機構にあてはめたものが、いわゆる足高(あしだか)制<(注33)>であった。
(注33)「徳川吉宗が享保8年(1723年)6月に施行した法令。・・・実際にはそれ以前にも、特に有能な者は加増をしてでも高位に取り立てることは行われており、それが幕府財政窮乏の一因ともなっていた。足高の制によって、役職を退任すれば石高は旧来の額に戻るため、幕府の財政的な負担が軽減できるというのが最大の利点であった・・・。しかし現実には・・・家格以上の役職に就任した者が退任するにあたって世襲家禄を加増される例が多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E9%AB%98%E3%81%AE%E5%88%B6
特に実務官僚である役高3000石の勘定奉行に1000石未満の者が多く登用されるようになった。
一方、従来の勘定所は上方・関東方と二元化していた勘定所機構を一元化し、勘定所(奉行)を勝手方(農政・財政担当)と、公事方(公事・訴訟担当)に職務分化させるなど機構改革を実施、勘定所の地方支配強化も計られていった。」(87、93~94)
⇒吉宗の時代になると、「民間人」登用が一層活発化するとともに、行政と(民事裁判についてですが)司法が機能的に分離されるに至った、ということです。(太田)
「いわゆる田沼時代(1760~86年)、重商主義政策のなかで競って年貢増徴をおこなったり、高利貸資本と結びつく代官が数多く見られた。・・・
この期の多くの代官は農民の撫育を怠り、農政の欠陥により、中層以下の没落をも招いた。
そうして農村が疲弊していくさなか、いわゆる天明の大飢饉<(注34)>がおこり、特に北関東から東北にかけては農村からの人口流失や生活苦からの堕胎や間引きの横行など、農村荒廃や生産力の低下をより一層のものとした。
(注34)「1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。・・・
幕藩体制の確立とともに各地で新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われた。しかし行き過ぎた開発は労働力不足を招き、強引に治水した河川が耕作地に近接しすぎることで、洪水を頻発させ生産量低下の原因にもなった。
さらに当時は、田沼意次時代で重商主義政策が打ち出され「商業的農業の公認による年貢増徴策」へと転換され、地方の諸藩は藩財政逼迫の折に、稲作の行き過ぎた奨励(結果的に冷害に脆弱であった)や、備蓄米を払底し江戸への廻米に向けるなどの失政が重なった。・・・
また、・・・本来温暖な地域で生育する<コメ>を寒冷な地域で作付けしたため、気温低下の影響を受けやすく、減作や皆無作などの危機的状況を招き易かった。さらに栽培技術や品種改良技術も未熟であったため、安定した収穫は困難であった。・・・
東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。
こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による冷害傾向をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。天明2年(1782年)から3年にかけての冬に異様に暖かい日が続い<て旱魃になり、爾後も凶作が続いた。>・・・
<この>大凶作の一方で米価の上昇に歯止めが掛からず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。・・・
飢餓とともに疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減を招いたとされる。
農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化した。1787年(天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、その後全国各地へ打ちこわしが広がった。7月、幕府は寛政の改革を始めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89
⇒ほぼ同じ時期に起こったベンガル大飢饉(1769~73年)と比べてみましょう。
当時、英東インド会社は人口4,000万人のベンガル地方を統治していましたが、この飢饉で1,000万人が死亡していますから、死亡率は25%です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Bengal_famine_of_1770
他方、天明の大飢饉(1782~88年)当時の日本は人口3,000万人で、うち100万人弱が死亡したのですから、死亡率は3%程度に過ぎません。
両者とも稲作地帯であるところ、植民地と非植民地という違いはありますが、基本的には、自由主義/資本主義・・稲ではなく商業作物たるケシや藍の栽培を強制(上掲)・・とプロト日本型政治経済体制・・稲栽培過奨励・・の違いである、と言ってよいでしょう。(太田)
それにともない、税収の落ち込みによる幕府財政も破綻寸前であった。
こうしたなか、田沼意次に替わって政権を担当したのが松平定信(1787~93年老中首座)である。・・・
定居の代々代官をのぞけば、4分の3の代官が入れ替<えられたが、その結果>・・・新たに代官に登用された者には、後世に名大官と称される人物が数多くいた。」(94~95)
⇒日本では速やかに行政改革が行われたわけです。
しかし、インドでは、英国統治下で、実に、1943年のそれに至るまで、死亡百万人のオーダーの大飢饉が繰り返され続けるのです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Famine_in_India (太田)
(続く)
西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その7)
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