太田述正コラム#8072(2015.12.4)
<西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その8)>(2016.3.20公開)
「寺西封元<(たかもと)(注35)>は1772(安永元)年西丸御徒(おかち)<(注36)>に抱えられた。
(注35)1749~1827。「芸州浅野家に仕える下級武士の子として生まれる。寛政4年(1792・・・)奥羽<の>代官となり、22年間塙(はなわ)代官所(福島県)に勤務。・・・文化11年(1814)桑折代官所へ移り、塙・小名浜・桑折・川俣の幕領十四万石を支配した。」
http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/teranishiTakamoto.htm
(注36)御徒=徒士。「江戸幕府や諸藩に所属する徒歩で戦う下級武士のことである。近代軍制でいうと、馬上の資格がある侍(馬廻組以上)が士官に相当し、徒士は下士官に相当する。徒士は士分に含まれ、士分格を持たない足軽とは峻別される。戦場では主君の前駆をなし、平時は城内の護衛(徒士組)や中間管理職的な行政職(徒目付、勘定奉行の配下など)に従事した。」
http://www.weblio.jp/content/%E5%BE%A1%E5%BE%92
その後、1792(寛政4)年御徒組<(注37)>頭へ昇任、わずか4ヵ月後に陸奥国塙(はなわ)・小名浜の代官へ登用された。
(注37)=徒士組=徒組=徒歩組。「江戸幕府の職名。将軍外出の際,徒歩で先駆を務め沿道警備などに当たった。」
http://www.weblio.jp/content/%E5%BE%92%E5%A3%AB%E7%B5%84
44歳であった。
封元は、安芸国三原の生まれで、幼少時は貧窮し備後国龍興寺に属し稚髪、13歳の時に江戸へ出て、15歳で還俗し、先に江戸へ出て御徒に抱えられていた兄の元に身を寄せていた。
しかし、兄に嗣子がいなかったために、番代(ばんがわり)として抱えられることになった。
封元以前に御抱席<(注38)>御家人から直接代官への就任は、享保改革時の1736(元文元)年の二例しかない、異例の抜擢人事である。
(注38)「御家人には譜代,二半場(にはんば),抱入(かかえいれ)(抱席)の3階級がある。譜代は家康より家綱までの4代の間に留守居与力同心等に就職した者の子孫,二半場は4代の間に西丸留守居同心等に就職した者の子孫,抱入は4代の間に大番与力同心等に召抱えられた者および5代以後に召抱えられた御目見以下の幕臣をいう。」
https://kotobank.jp/word/%E6%8A%B1%E5%B8%AD-1287501
封元は1812(文化9)年永々御目見以上、すなわち正式に旗本となり、1818(文政元)年には現職のまま勘定組頭<(注39)>格へ昇格、1826(文政5)年には布衣を許され、30俵加増により家禄は100俵5人扶持となった。
(注39)「勘定所に属して勘定奉行の支配を受けて勘定所所属の諸役人を指揮・監督を行い、幕府財政及び農政を担当した。・・・
寛文12年(1672年)の職制によれば定員12名・役料は100俵であり、御殿(江戸城)担当が2名が設置され、残りは上方担当と関東担当に振り分けられていた(最低4名)。天和2年(1682年)に一旦役料が廃止されたが、享保7年(1722年)に改めて役高350俵が与えられ、翌8年(1723年)の制度改革によって地域別振り分けを廃して、代わりに御殿詰・勝手方・取箇改・伺方・諸向勘定帳改の部門別振り分けが導入された。以後定員は10~13名で推移しながら幕末にまで至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%98%E5%AE%9A%E7%B5%84%E9%A0%AD
封元は、江戸に在府するこれまでの代官と異なり、支配地に在陣してじっくりと農村復興に尽力した。
その長さも、陸奥国桑折(こおり)陣屋において79歳で命ついえるまでの、じつに36年間におよんだ。
⇒客観的にその任に耐え得、かつ、本人が希望すれば、生涯現役の役人生活を貫けるとは、羨ましい限りです。(太田)
封元の支配地とした東北地方は、封元の就任時、天明の大飢饉の疲弊から立ち直れずにいた。
そうした現状を踏まえて、赴任の翌年「寺西八ヵ条」と称する訓諭を支配地廻村の際に読み聞かせ、八ヵ条をふだん心掛ければ、人間の道にかなうので、子々孫々まで繁昌栄えると説いた。・・・
一条は人のやることは天はすべてお見通しで悪いことはできない、四条は子供の多寡にかかわらず子供がかわいいことは生類共通で、そうでなければ鳥獣にも劣る。
八条は世渡りとしては憎まれないよう何事も堪忍して愛嬌をふりまいておくことがよい、といったように大飢饉を経て人道を失っていた人心を見通して、人としての本質を説いたものである。・・・
さらに、「子孫繁昌手引草」という木版刷りの小冊子を全戸に配布し、間引き・堕胎がなぜ悪いのかを芋や大根といった農作物や雉子や馬といった動物にたとえたり、土地の方言を交えわかりやすく説き、自発的に矯正させようとしたのである。
<それとともに、>・・・小児養育金制度を設け<る等、>・・・一連の・・・実<のある>・・・政策を実行した・・・
寺西は、近隣諸藩からも注目されることとなり、1811(文化8)年には封元自らが盟主となり、白川藩・平藩など東北10藩の担当者を招き、勤倹節約のため「十禁の制」を制定し、各藩各村に遵守励行するように配布した。
内容は、勧農、博奕の禁といった、当たり前の内容であったのだが、それすらも等閑(なおざり)になっていたのであろう。
30年以上にわたって善政をしいた封元が没したときは、庶民は号哭し、会葬者は1万人以上であったという。」(95~98)
⇒西沢が紹介していない、封元の事績を追加しておきましょう。↓
現在の福島県塙町の「向ヶ岡公園・・・は、寛政5年(1793年)に塙代官・寺西・・・封元によって四民(士農工商)遊楽の地として造成されました。公園造成という土木工事の仕事を与えることによって、飢饉で苦しむ地域住民の生活を支えるという「窮民救済」の目的がありました。窮民を救い、窮民の汗によって完成したこの「向ヶ岡公園」は、日本最初の庶民公園として伝えられています。」
http://hanawa-kanko.com/hana/181
封元は、その長い役人生活を通じて、人間主義的施政を実践し続けたわけです。
封元の宗旨は臨済宗です
http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/teranishiTakamoto.htm
http://www.tesshow.jp/arakawa/temple_wnippori_nansen.shtml
から、これらの人間主義の実践の背後にあったものは、宗教ではなく、彼の生い立ちと受けた教育であったと思われるのですが、それを解明する手掛かりはありませんでした。(太田)
(続く)
西沢淳男『代官の日常生活』を読む(その8)
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