太田述正コラム#8090(2015.12.13)
<楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その4)>(2016.3.29公開)
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[USさん「発見」論文(コラム#8089)を読んで]
佐藤公彦「一八九一年、熱河の金丹道蜂起」(1984年)をざっと読ませてもらったが、モンゴル(や満州への)入植禁止政策にもその解禁にも触れず、ロシアの南下にも正面からは触れず、といささか解せないものの、清の盛時から、既に、食い詰めた漢人のモンゴル流入がモンゴル側の黙認の下で行われ始めていたところ、モンゴル側が、これら漢人達に土地を提供し、耕作させ、地主としてこの漢人達を搾取し、虐待してきたことへの憤懣が積もり積もって漢人達が立ち上がったのが金丹道蜂起である、という結論の論文であったことには驚いた。
これは、典拠の付け方等からして、まともな論文のようなので、少なくともこの結論部分については正しい、と見てよさそうだ。
そうだとすれば、楊の、漢人悪者観に立った金丹道蜂起論を含む、あらゆる叙述の信頼性は極めて低い、と考えるほかあるまい。
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「明治期になると、秋山好古<(注11)>(あきやまよしふる)(1859~1930)を指導者とする近代日本の騎兵は・・・モンゴル淵源の騎兵術を改良してい<っていたところの、>・・・ヨーロッパの騎兵術を<、更に、>世界最高のレベルにまで合理化した。
(注11)1859~1930年。「日本の陸軍軍人。最終階級・・・は陸軍大将・・・元帥位叙任の話もあったが本人が固辞した」。1887~91年、フランス留学。「日露戦争において、騎兵第1旅団長として出征し、第2軍に属して、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦う。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E5%A5%BD%E5%8F%A4
「秋山好古は本邦騎兵用兵論において敵地深く侵入し後方撹乱にあたる挺進騎兵の必要性<を>説き、永沼挺進隊により実行されている。その為、秋山は「日本騎兵の父」と呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E5%85%B5
銃火器との併用である・・・。
⇒「秋山は・・・日露戦争において・・・、馬格で劣る日本馬で、《機関銃の装備》など、当時世界最強と謳われたロシアのコサック騎兵に勝つため、数々の工夫をなした。」(上掲。《》は私が強調のために付した)というのですから、楊のこの記述は明白な誤りです。
なお、「1945年(昭和20年)に行われた老河口作戦での<日本の>騎兵第4旅団・・・<は、>3月27日に老河口飛行場の乗馬襲撃、占領に成功し、世界戦史における騎兵の活躍の最後を飾った」(上掲)ところです。(太田)
<日露戦争の時に、>モンゴル人の仲間であるユーラシアのトルコ系遊牧民の兵士が主流を成すロシアの騎兵を満州の平原で打ち破った日本軍騎兵隊の活躍をみて、元祖のモンゴル人たちは瞠目した。
チンギス・ハーン時代の戦術を下馬させ、大和の侍に学ぼう」とモンゴルの騎士たちは謙虚になった。
そこからモンゴルと日本の20世紀は、幕を開ける。」(15~16)
「満州人の清朝を時代遅れの存在だとみなし、日本の明治政府のような近代国家を創建するには武力しかないと考えた日本人有志は、1911年に清朝南部の武昌という都市で中国人と共に決起した。
⇒「辛亥革命が成功した陰には、物心両面にわたる日本人の多大な援助があったことは」http://www.geocities.jp/shougen60/shiryo/sonbun.html
事実ですが、「共に決起した」日本人の話は聞いたことがありません。
楊の面目躍如といったところです。(太田)
かくして清朝は倒れるが、川島浪速らは逆に清朝の皇族である粛親王<(注12)>らを擁立し、宗社党<(注13)>を結成して満蒙独立運動を展開した。」(24~25)
(注12)愛新覚羅善耆(アイシンジュエルオ・シャンチー。1866~1922年)。「日本より招聘した川島浪速を北京警務学堂の創設にあたらせるなど親日家であった。立憲制への移行を支持し、革命派に対しても理解があり、開明皇族と知られる。・・・辛亥革命勃発時には、恭親王溥偉とともに宣統帝の退位に反対した。・・・清朝滅亡後は、復辟をめざす清朝遺臣の宗社党の中心人物として・・・活動を行っ<た>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E5%96%84%E8%80%86
恭親王・愛新覚羅溥偉(アイシンジュエルオ・プーウェイ。1880~1936年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E6%BA%A5%E5%81%89
(注13)「1912年(民国元年)1月、清朝の皇族である良弼・愛新覚羅溥偉・・・らが宗廟社稷の護持を謳って君主立憲維持会を結成、俗に宗社党と呼称した。宗社党は、南北和議・宣統帝退位に反対するため、天津・北京などで秘密活動を展開し、袁世凱からの奪権を目指した。しかし1月26日、良弼が革命派により暗殺されてしまったため、宗社党の動きは鈍り、宣統帝の退位と共に宗社党は解体されてしまった。その後も、宗社党の残党は天津・東三省で活動し、日本の支援も受けたが、張作霖率いる奉天派の軍隊などに鎮圧され<た>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E7%A4%BE%E5%85%9A
良弼(りょうひつ=Liyang-bi)は日本の陸士卒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E5%BC%BC
⇒清末から日本の敗戦に至る、支那におけるあらゆる政治的軍事的動きと日本とは切っても切り離せない関係にあった、という感を改めて深くします。(太田)
(続く)
楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その4)
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