太田述正コラム#8092(2015.12.14)
<楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その5)>(2016.3.30公開)
「アジアのほとんどの民族が西洋の植民地からの解放を目指していたのに対し、モンゴルは中国からの完全な自立を民族の目標に掲げていた(リ・ナランゴア・・・)。・・・
⇒内モンゴルから、圧倒的多数を占めていたところの、漢人達を追い出し、あるいは漢人達を隷属させて、再びモンゴル人の支配的地位を回復しようとしただけのことでしょう。(太田)
バボージャブと清朝の粛親王<は>互いに息子を人質のように交換し合いながら、強固な絆で満蒙独立運動を進め・・・た・・・
⇒だから、バボージャブは、復辟を目指す清朝の王族達と手を組んだわけです。
参考:「清朝のモンゴル統治では、モンゴル族を同盟者として扱い、その忠誠を確保するためにさまざまな保護がなされていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E6.B8.85.E6.9C.9D.E7.B5.B1.E6.B2.BB.E6.99.82.E4.BB.A3 (太田)
<日本の>陸士を卒業した、ジョンジョールジャブは満州事変を利用して兄のガンジョールジャブとモンゴル独立軍を創設した。
石原莞爾は日蓮の世界最終戦争論を信じ、満蒙独立を支持した。
この石原莞爾に忠実に追随した金川耕作<(注14)>は興安軍官学校の顧問になる。
(注14)「金川耕作・・・大佐は、関東軍司令官梅津美治郎大将の諒解を得て、蒙古工作要員養成所の開設を決定し、西北学塾と名づけた。
金川大佐は直接的軍事目的などより、蒙古から新彊・青海・西蔵の西北地区の民族をして大アジア連盟の一員たるの自覚を促し、その決起を求めるための要員の養成を、胸のうちに画いていたのであったが、資金と人材を得る口実に、蒙古の司政官を教育するとか、特務機関員の養成、つまりスパイ学校とするとか、・・・ということで軍司令部の許可を取りつけたのであった。
「諸君は西北アジア諸民族の戦闘に立ち、大アジア建設の一環を担うべき使命を有する。
本学塾は、将来その所在を西蔵に移し、東亜諸民族を一丸とする唯一の大学たらんことを期しておる。従って諸君はその時の教授となる人材とならねばならない・・・」とまさしく石原莞爾直伝の東亜連盟論の展開である。」
http://www.ac.auone-net.jp/~tigre/gwife2670/senryaku/seihoku.htm
⇒石原は、一帝国陸軍軍人として、対赤露抑止の必要不可欠な手段の一つとして、日本による「満州領有」を構想し、その構想を自ら実現させ、日本が実質領有するに至った満州国の建国理念として、田中智学の八紘一宇の精神
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87 >
に基づく、「王道楽土」、「五族協和」を追求した、ということであって、「満蒙領有論から満蒙独立論へ転向してい」ったわけではない、と考えます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E8%8E%9E%E7%88%BE (「」内)
すなわち、私に言わせれば、楊の石原評は誤りなのです。(太田)
ジョンジョールジャブと石原莞爾は、いくつかの思わぬ縁でつながっていたのだ。・・・
<ジョンジョールジャブの日本の軍部や政財界の>錚々たるメンバーたちとの親交は諸刃の剣だった。
軍部や政財界と太いパイプを作った<彼>は満州国軍の軍官になってから、同僚の日本人将校と頻繁に衝突した。
強力な後ろ盾を武器に、満州国軍の日本人顧問団を眼中に置かなかったのも一因だったとみられている(牧南恭子・・・)。
しかし、私は別の見方を持つ。
軍上層部との親交は確かにジョンジョールジャブを傲慢にしたかもしれないが、彼と日本人将校団との間に軋轢をもたらした最大の原因は日本の国策にある。
モンゴル独立論が東京で熱く盛り上がっていたにもかかわらず、満州国の建国後にはいとも簡単にそれを封じこんで「五族協和」に軌道を修正したところにある。」(31、33、40、44~45)
⇒ジョンジョールジャブら、当時の内モンゴルのエリート達は、漢人達に対する内モンゴル人の昔日の特権的地位の回復を希求していたが故に、石原や金川ら、当時の帝国陸軍の将校達の考え・・先ほども指摘したように、「軌道」「修正」などない一貫したもの・・とは、もともと相いれないものがあったのであり、両者は、常に緊張関係にあった、と見るべきでしょう。(太田)
「瀋陽<の>東北蒙旗師範学校は1929年7月1日に成立した学校で、教育を振興して、モンゴル民族を復興させようとした教育機関である。
校長のメルセイはうちモンゴル人民革命党の指導者であり、民族独立を唱える人物である。
彼は自らモンゴル人学生たちに植民地と民族問題に関するレーニンの理論を教えていた(リンチンメデク・・・)。
<この>学校の開校式には・・・のちに内モンゴル自決運動の指導者となる徳王も駆けつけた。
当時27歳だった徳王は、内モンゴルの最も開明的な貴族とされ、モンゴルの青年知識人たちに人気が高かった。・・・
彼はすでに自決運動を開始していた。
徳王は西進してくる日本を警戒しながらも、その力を利用して中国から独立しようとした。
1936年には日本軍の援助をうけてモンゴル軍政府を設置し、1941年にはモンゴル自治邦政権に発展していく(ドムチョクドンロブ・・・)。」(48~49)
⇒だからこそ、内モンゴルのエリート達が、(自分達の目的達成のためであれば、日本以外でも利用できるものは何でも利用しようとするが故に、)このように親赤露であっても何ら不思議はない一方、帝国陸軍の将校達は本来的に反赤露である以上、両者は、むしろ水と油であった、と言えそうです。(太田)
(続く)
楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その5)
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