太田述正コラム#8094(2015.12.15)
<楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その6)>(2016.3.31公開)
「純粋にモンゴル人からなる軍官学校の設置を・・・ジョンジョールジャブ<が>・・・提案し<たの>・・・に対して日本側は慎重に検討を重ねた結果、最終的に・・・興安軍官学校の設立を許可する。
康徳元年(1934)3月8日付の満州国軍政部発令により開校が決定され<た。>・・・
興安軍官学校は途中から年に2回生徒を募集するようになり、1945年の終戦時には第15期生が108人も入学していた。
13歳から17歳の少年たちだった。
講義はすべて日本語とモンゴル語からなっていた(湖泊・・・)。
合わせて、少なくとも1200人がここで学んだのではないか、と私は推算している。
興安軍官学校の顧問を務めた、陸士23期の下永憲次<(前出)(注15)>は、学校が設置された直後の1934年10月<で、>・・・ソ連領内のブリヤート・モンゴル<(注16)>とモンゴル人民共和国の「赤化」について分析し、内(みなみ)モンゴルの青年たちも共産主義に憧れて決起する運動に身を投じている現象に危機感を<表明し>ている。」(66~68)
(注15)1890~1949年。「シベリア出兵に参加。東京外国語学校でモンゴル語,中国語をまなび,北京駐屯歩兵隊副官,蒙古軍顧問,満州国軍政部広報部長を歴任。昭和14年陸軍大佐。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E6%B0%B8%E6%86%B2%E6%AC%A1-1081456
(注16)「元々はモンゴル系のブリヤート人の居住地であり、伝統的な牧畜などが営まれていた。政治的には1206年にモンゴル帝国のチンギス・ハーンに服属し、以後は各部族が歴代のモンゴル高原の支配者に服属していた。
16世紀になると金と毛皮を求めてバイカル湖から東進してきたロシア帝国の領域に組み込まれた。1666年にウダ川の河畔にできた要塞はベルフネウジンスク(後のウラン・ウデ)と名付けられ、地域の中心となった。1689年に清との間で締結されたネルチンスク条約により、この地域は正式にロシア領となった。
その後、1917年のロシア革命後には反革命軍がこの地域を制圧し、シベリア出兵により日本が占領した後の1920年には極東共和国の首都がベルフネウジンスクに置かれたが、1922年にソビエト政権の支配下に入り、1923年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内のブリヤート・モンゴル・ソビエト社会主義自治共和国となった。1937年にはブリヤート自治ソビエト社会主義共和国となった。
ソビエト末期の1990年10月8日には主権宣言を行い、1991年5月27日には国名を現在のブリヤート共和国に改称した。同年12月25日のソビエト連邦崩壊後にはロシア連邦共和国の構成体となり、1994年には史上初の民選大統領レオニード・ポタポフが選出された。
・・・現在はロシア人が全人口の7割を超え、混血も進んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%88%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
「ブリヤート人・・・は、ロシア連邦やモンゴル国、<中共>に住むモンゴル系民族。ロシア連邦内の人口は445,175人で、とりわけブリヤート共和国には全人口の約4分の1が居住している。
居住地域は、ロシア連邦内ではブリヤート共和国を中心にウスチオルダ・ブリヤート自治管区、アガ・ブリヤート自治管区など。そのほかモンゴル国の北部、<中共>内モンゴル自治区のハイラル近辺(シネヘン)にも居住している。
・・・モンゴル<人の>先祖はバイカル湖<周辺で>形成<され、その後、>草原<に>移動<した。>
<モンゴル人、とりわけその>ブリヤート人<は、>・・・縄文人の遺伝子に近い特徴を持つといわれ・・・ている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BA%BA
「会津藩士の血をひく金川耕作<(前出)>・・・興安軍官学校・・・顧問・・・は田中智学師の日蓮宗派に属し、・・・内務教育において、宗教心涵養のため班内に仏壇が安置され、朝夕・・・法華経<を>・・・礼拝読経し、食事前には「米粟一粒、冷水一滴も蒙古民族興隆の原動力たらん」と合唱唱和し、<五族協和の下での>蒙古民族の復興を祈念していた。・・・
⇒やや大げさに言えば、満州国の非公式「国教」は日蓮宗であった、という感すらあります。(太田)
<また、>1936年5月20日付で満州国政府から出された「蒙古民族指導の根本方針」は・・・「民族自決ではなく、各民族が満州国のなかに国民として溶け込むことが現代における民族の生き方である」と最後に強調してから、「満州国の民族政策はアジア民族政策の原形」である、と結論づけている。
要は、日本への同化を「アジア民族解放」の目標としている。・・・
中国共産党の宣言書と関東軍の民族政策は驚異的に近似してい<た。>
どちらもモンゴルのような弱小民族の単独による自決を許さずに、自らを救世主にして解放者であるとし、その救世主と解放者による救済と解放を待たなければならないという傲慢な態度である。
実際、中国共産党は抗日戦争には加わらずに辺境の延安でじっくりと関東軍の政策を研究していた。・・・
今日、モンゴルもチベットも、そしてウイグルも民族ではなく、単なる「族群(エスニック・グループ)」だと中国政府は定義している。
それぞれの「族群」は無条件で「中華民族の一員」を成し、漢民族への同化が強制されている。
中国共産党はまるで日本帝国主義を引き継いでいるかのようだ。」(78~79、91、97~98)
⇒中共の少数民族政策もまた、戦前の日本のそれの(私の言葉で言うところの)継受であった、との楊の評価は、まぐれ当たりに近いと思われますが、蒙を啓かされる思いがするとともに、なるほど、そうであったに違いない、という気がしてきました。(太田)
(続く)
楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その6)
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