太田述正コラム#8096(2015.12.16)
<楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その7)>(2016.4.1公開)
「凌陞<(注17)(りょうしょう)>は1936年4月・・・に、関東軍憲兵司令部の命令で、新京の南嶺という地で処刑された・・・。
(注17)1896~1936年。「満州里会議を契機にモンゴル側要人と接触し、オラホドガ事件などに際して満州国軍・日本軍の軍事機密を伝達する内通行為を開始した。さらに、モンゴル側から密かに武器の提供を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%99%9E
オラホドガ事件は、「1935年・・・2月19日から翌年2月15日までの間、日本・満州国と外蒙古の間で起きた軍事紛争」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%9B%E3%83%89%E3%82%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「通ソ」すなわち「ソ連に密通」していた容疑がかけられ、興安北省警備軍上校参謀長・・・(凌陞の弟)と興安北省警務庁長・・・(凌陞の妹の夫)・・・らと共に殺害された。
いわば、凌陞家の有力な政治家は関東軍によって一網打尽にされたのである。
このような情勢の下、残された<凌陞の息子の>セブジンタイと交流する大胆な者は皆無だった。・・・
しかし、ジョンジョールジャブは厳しい状況のなかで、愛妹を・・・青年セブジンタイと結婚させて落ち着かせた。
このような英断を下したジョンジョールジャブはモンゴル人から多大な尊敬をうけ・・・た。・・・
<ジョンジョールの父の>ジャブバボージャブ将軍と凌陞家<は、>・・・<内モンゴル>独立のために・・・緊密な連絡<を取り合って>・・・闘った<間柄だった。>・・・
凌陞はまた1925年10月に成立したモンゴル人の民族主義政党、内モンゴル人民革命党の創始者メルセイ<(前出)>と親しくしていた。
・・・ソ連とモンゴル人民共和国を行き来するコミンテルンの関係者がフルンボイルで活動するのを容認していた。
この頃の凌陞は、共産主義運動が民族自決を実現させると信じていたのだ。
満州事変は、凌陞に新しい希望を与えた。・・・
多くのモンゴル人青年と同様に、中国から独立するため、日本の力に期待したのだ。
しかし、満州国が誕生し、本人も興安北省の省長に任命され、何らの実権がない現実に直面すると、凌陞の態度は一変する。・・・
モンゴル人はとにかく草原が開墾されるのに心底から嫌悪感を抱く。
侵略してきて手当り次第に草原に犂を入れて環境を破壊する中国人を日本は追い出してくれると期待して満州国に参加した。
しかし、その日本もまた開拓団をフルンボイル草原に送りこんできた。・・・
モンゴル人からみれば、遊牧民の存在を無視した中国のやりかたと同じだ。
1934年に、凌陞は興安北省に日本の開拓団の入植に抵抗したことで、関東軍の反感を買っていた。・・・
1935年6月、「満州里会議」<(注18)>(第一次)が開催された。
(注18)「満州里会議(まんしゅうりかいぎ、マンチューリかいぎ)は、モンゴル人民共和国と満州国の国境問題解決のため、1935年から1937年にかけて、数回に亘り満州里で開かれた一連の外交会合である。モンゴル人民共和国と満州国の政府代表が出席する形式で、両国の背後のソビエト連邦政府と日本政府の影響下で外交交渉が行われたが、具体的成果の無いまま途絶した。満蒙会議(まんもうかいぎ)とも呼ばれる。・・・
日本が満州国を建国して以後、満州国と、ソ連の衛星国であるモンゴル人民共和国の間では、国境紛争が発生していた。両国国境のあるフルンボイル一帯は、遊牧民が活動する人口密度の低い草原で、国境が不明確であった。モンゴル独立以前の清朝支配時代に定められたハルハ族とバルガ族の境界線はあったが、地形的に基準物が乏しく、標識も一部風化していた。日本と満州国側は、従来の境界線は清の行政区分にすぎないとの立場をとり、ハルハ川などを国境線と主張したため、係争地帯が生じていた。・・・
1935年1月、モンゴルと満州国の国境地帯に存在する仏教寺院の周辺で、モンゴルの国境警備隊と満州国軍の興安北省警備軍が銃撃戦となる哈爾哈(ハルハ)廟事件が発生した。小規模ではあったが双方に死傷者が出る初めての戦闘であり、満州国軍だけでなく日本陸軍も出動するなど従来の状況とは一線を画する事件だった<ことから、満州里会議が開催されることになった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E9%87%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0
満州国とソ連の影響下にあるモンゴル人民共和国との国境問題を協議する会合だ。
満州国側からは興安北省省長の凌陞が首席代表をつとめ、同省警備軍少将司令官<たるモンゴル人>・・・、外交部政務司司長<たる日本人>、関東軍駐ハイラル特務機関長・・・中佐<たる日本人>らが列席した。
モンゴル人民共和国からは外務省次長のサンボーが首席代表で、<そのほか、>東部方面辺境防衛軍軍団長の・・・中将らがやってきた。・・・
凌陞とサンボーは互いに連携し合っていた。
凌陞はソ連とモンゴル人民共和国の力で内モンゴルを日本の支配下から解放したかったし、サンボーもまた日本の存在を活用してソ連の影響を自国から排除したかった。
二人の意図はまもなく日本側に察知された・・・。・・・
田中克彦<(注19)によれば、>・・・かれらを死刑にすることを強く求めたのは、当時関東軍憲兵隊司令官だった東条英機中将だった・・・。・・・
(注19)1934年~。「言語学者。専門は社会言語学。モンゴル研究も行う。言語と国家の関係を研究。一橋大学名誉教授。・・・東京外国語大学・・・モンゴル語・・・卒業。・・・「ソビエト・エトノス科学論:その動機と展開」により一橋大学博士(社会学)を取得。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%85%8B%E5%BD%A6
凌陞の「通敵」行為は・・・近年、モンゴル側で公表された研究からも裏付けが得られている点にも田中は注目している。・・・
「通ソの共犯」たちは銃殺刑だったが、凌陞だけは斬首刑だった・・・。・・・
関東軍は凌陞を処刑したことで、モンゴル人の心を失った。
満州国だけでなく、西隣のモンゴル自治邦の最高指導者の徳王<(前出)>まで関東軍の実力者たちに助命の嘆願をしていたが、無視された。
満州国という国家の運営にあたり、日本は多くの建設的な役割を果たしていた事実は、モンゴル人も認めていたのである。
しかし、凌陞の殺害で、モンゴル人は次第に日本への幻滅を深めていく。」(100~104、106、109~111)
⇒奇しくも、サンボーもまた、ソ連の指示による外モンゴルでの大粛清の一環として、1937年9月に日本のスパイとして逮捕され、10月に国家反逆罪で処刑される
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E9%87%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0
のですが、外モンゴル(モンゴル人民共和国)のアマール首相が、ソ連の裁判で、被告として、刑死を覚悟しつつ、「全ての調査はモンゴル人の虚偽の自白にもとづいてデッチ上げられた残忍なものだ。被疑者はすべて無実である。これが真実なのである」と陳述した(コラム#634)ように、サンボーだって冤罪なのであり、これが、当時の日本と赤露の決定的な違い、そして、どうして当時の日本がその国策のほぼ全てを対赤露抑止に捧げたかを端的に物語っています。
凌陞は、満州国/日本に対してのみならず、モンゴル人全体に対して反逆罪を犯したのです。
なお、「モンゴル人民共和国」の日本語ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
にこの大粛清への言及が全くないことには呆れます。(太田)
(続く)
楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その7)
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