太田述正コラム#8100(2015.12.18)
<楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その9)>(2016.4.3公開)
「ノモンハン事件に出動した・・・80数人<の>・・・14、5歳の子ども<達からなる>・・・蒙古少年隊・・・は、ノロ高地で勇戦し、敵戦車に突進して寺崎中尉以下数名の少年兵が戦死した。
事件後、金川顧問はいたく感動し、これら少年隊の英霊を供養するため忠霊塔の東側に地蔵を建立し、親子地蔵と命名した。
これら満州建国に伴う供養施設は終戦後中共政府により取り壊された。(戒能伍郎・・・)
私もモンゴル人として、「蒙古少年隊」が草原の日ソ戦に動員された残酷さには心が痛むが、親子地蔵が中国共産党政府によって破壊されたことにも怒りを覚える。
政治は、鎮魂のあり方にまで干渉して他者の歴史を貶してはいけない。」(145~146)
⇒ここも、断定はできませんが、前段は事実に反する可能性が高いと思います。
「訓練中の少年兵で構成された蒙古少年隊(日本軍との通訳要員として予定)」
http://yamanekobunko.blog52.fc2.com/?mode=m&no=287
が、結果として戦闘に巻き込まれてしまった、といったところではなかったのでしょうか。
楊が戦前の日本の対外政策の肝であった対赤露抑止の意義が理解できていないことまでは咎めないとしても、彼は、日本国籍こそ取得するに至っていても、いまだに、日本人達が、現在も戦前も、基本的に人間主義者であることが分かっていないようです。(太田)
「やがてジョンジョールジャブ上校もノモンハンの陣地に来た。
しかし、デレゲル副官とワンジャル上尉<(大尉)>がソ連軍に投降してから、日本人はもうわれわれモンゴル人将校を完全に信用しなくなった。
私は参謀であるにもかかわらず、作戦計画もみせてもらえなくなった。
田中正との日本名を名乗り、自らも日本人だと思っていたジョンジョールジャブ上校にも作戦計画の詳細を知らせてこなくなった。(・・フクバートル・・・)・・・
正規の興安師内のモンゴル人騎兵が次第に戦意を喪失していったのに対し、興安軍官学校の教導団は終始、ノモンハンで勇猛に闘い通した。
「日本人の精神は、たとえ戦死しても、一歩たりとも後退しないことだった。
我が教導団のモンゴル人も退却したことはない」<と。>」(149~150)
⇒興安軍官学校のモンゴル生徒達は、金川耕作顧問ら日本人達によって、人間主義者たる武人、すなわち、縄文的弥生人、すなわち、日本人(普遍的人間)へと錬成されていた、ということなのでしょうね。(太田)
「興安軍官学校教導団は精鋭にふさわしく力戦したが、金永福団長は三等武功賞しか授けられなかった。
その理由は、第一中隊高橋小隊長指揮下の第7班の班長小ラマ・・・が班員を連れて脱走したからである。
1939年11月上旬、小ラマはついに投降する。・・・
そして、軍法会議にかけられ、小ラマはじめ18名に死刑判決が言い渡された。・・・
<その翌年、>小ラマ<は>・・・フクバートル<(前出)にこう語った。>
<死刑が>執行<され>ようとしたその時、金川耕作<(前出)>顧問が車に乗って現れた。
何かいうことないか、と金川顧問に聞かれた。
日本人は約束を守らない。
帰還したら殺さないと約束したのではないか、とおれは反問した。
すると、おれの息子になれば、死刑を免じてやる、と金川耕作は持ちかける。
おれは金川耕作の養子になることを誓い、同志<2人>・・・の命を懇願した。
おれたち3人・・・<以外>は殺害された。・・・
小ラマはこうして金川耕作指導下の特務機関のスパイとなり、・・・<やがて、彼は満州国とモンゴル人民共和国の>二重スパイ<になった。>・・・
⇒縄文的弥生人は、戦後も、自衛官幹部の過半において見出すことができるけれど、このような諜報的センスは、もはや、彼らの間からさえ失われている可能性があり、私は、このことを一番心配しています。(太田)
ノモンハン戦争の最中に、デレゲル副官とワンジャル上尉が7月6日にソ連軍に投降した、と前に述べた。
この2人のモンゴル人はその後、モンゴル人民共和国の首都ウランバートルでしばらく暮らしてから徳王治下のモンゴル自治邦に帰郷した。
満州国では日本人が実権を掌握していたのに対し、徳王政権はモンゴル人自身の国家である。
しかし、金川耕作は彼ら2人を放っておかなかった。
デレゲル副官は金川から逃げようとして仏教の聖地、五台山<(注23)>に行って出家していたにもかかわらず、拉致されて満州国で「失踪」させられた。
(注23)「中国山西省東北部の・・・にある古くからの霊山である。標高3,058m。仏教では、文殊菩薩の聖地として、古くから信仰を集めている。・・・2009年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。・・・山内には、北魏の時期に大浮図寺と呼ばれる寺が建立され、それ以後、多数の山岳寺院が建立された。その最も繁栄した時期には、300以上の寺が林立していたといわれる。観音菩薩の霊場である普陀山と、普賢菩薩の霊場である峨眉山、地蔵菩薩の霊場である九華山と並んで、中国仏教の聖地とされる(中国三大霊山、中国四大仏教名山)。現在でも、台内に39ヶ寺・・・、台外に8ヶ寺・・・で、合計47ヵ寺の寺院が存在する。日本の平安時代から鎌倉時代の入唐僧や入宋僧の多くも、天台山と共に率先してこの山を訪れた。また、チベット仏教の教徒の尊崇も集めており、菩薩頂と呼ばれる寺院のある五台山は、中国内地では、漢伝仏教とチベット仏教との唯一の共通の聖地となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%8F%B0%E5%B1%B1_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
ワンジャル上尉はソ連が侵攻してきた8月11日に、王爺廟の刑務所で暗殺された。
モンゴル人に愛された金川だが、冷徹な軍人としての一面もここからはうかがえる。」(155~157)
⇒ここは何の典拠も付されておらず、この2人の殺害が金川の差し金によるものなのかどうかは分かったものではありませんが、いずれにせよ、この2人は(暗殺という形であれ)処刑されて当然でしょう。(太田)
(続く)
楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その9)
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