太田述正コラム#8106(2015.12.21)
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その1)/私の現在の事情(続x69)>(2016.4.6公開)
1 始めに
 今度は、「移民たちの「満州」–満蒙開拓団の虚と実」です。
 著者の二松啓紀(ふたまつ ひろき)は、「1969年京都市生まれ。同支社大学大学院修了(社会福祉学修士)。京都新聞社文化部記者。・・・2003年から満蒙開拓団やシベリア抑留などをテーマに取材活動を続ける。」(奥付)という人物です。
2 移民たちの「満州」
 「満州事変緒以前、「満州」と呼ばれた中国東北地方に在住した日本人は約23万人、全人口3000万人に対して1%弱だった。
 大半が南満州鉄道(満鉄)社員とその家族か、満鉄関連会社に携わる人たちで占められた。
 彼らは満鉄附属地に住み、日本語を話し、日本人学校に通い、日本人商店で買い物をした。
 しかし、関東軍の支配が及ぶ「点」(都市)と「線」(満鉄沿線)を除けば、日本から見れば、まだ満州のほとんどが空白地だった。・・・
 <そして、満州事変が起こった。>
 1932年3月1日、満州国<(注1)>は建国を宣言。・・・
 (注1)「1932年(大同元年)3月1日の満洲国佈告1により、国号は「滿洲國」と定められている。日本では第二次世界大戦後、当用漢字字体表・・・に含まれていないため、・・・同音の漢字による書きかえに基づき、音が同じで字体の似た「州」に書き換え「満州国」と表記する。この国号は、1934年(康徳元年)3月1日に溥儀が皇帝に即位しても変更されなかった。ただし、・・・法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD
 満州国の理念として、「王道楽土」<(注2)>と「五族協和」<(注3)>を掲げた。
 (注2)「アジア的理想国家(楽土)を、西洋の武による統治(覇道)ではなく東洋の徳による統治(王道)で造るという意味が込められている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E9%81%93%E6%A5%BD%E5%9C%9F
 「孟子<は>、覇者とは武力によって借り物の仁政を行う者であり、そのため大国の武力がなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、徳によって本当の仁政を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる<、とした>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90#.E7.8E.8B.E8.A6.87
 「楽土」については、一般用語であるということか、特段の説明をネット上に見出せなかった。
 (注3)「清朝の後期から中華民国の初期にかけて使われた民族政策のスローガン「五族共和」に倣ったものであるが、こちらの「五族」は「満・蒙・回・蔵・漢」を指しており構成が異なる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%97%8F%E5%8D%94%E5%92%8C_(%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD)
 王道楽土とは、武力ではなく東洋の徳でもって統治することを意味し、五族協和とは、漢・満州・朝鮮・蒙古・日本の五民族が友好な関係を築くことを意味した。
 しかし、王道楽土とは、中国側に武力を持たせない口実となり、五族協和とは、日本人が支配民族であるとの宣言にすぎない。
⇒典拠が必要でしょう。前者も微妙ですが、後者には典拠などないはずです。(太田)
 日満両国の友好ムードが演出される中、清朝廃帝(宣統帝)の溥儀は満州国執政に就き、政治の表舞台に返り咲いた。
 建国宣言から間もない3月10日、溥儀は関東軍司令官本庄繁宛の書簡に署名した。<(注4)>
 (注4)「昭和8<1933>年7月28日から昭和8年8月22日の間を除き関東軍司令官が満州国在勤特命全権大使を兼ねた。」
https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGHP_jaJP668JP668&q=%E6%98%AD%E5%92%8C%EF%BC%98%E5%B9%B4&gws_rd=ssl
 それは、▽国防と治安は日本に委託し、経費は満州国が支払う▽鉄道・港湾・水路・航空路などの管理や敷設は日本に委託する▽日本軍司令官の推薦により日本人を参議府(執政の諮問機関)のメンバーに任命する–などの内容であり、日本側が満州国における軍事・経済・政治すべての権限を握った。
 まさに傀儡国家だった。
 満州国政府や地方行政府では、表向きのトップに中国人を据えたが、日本人官僚が副官や次長として就任し、「内面指導」<(注5)>に当たった。
 (注5)「石原<が>「五族協和・王道楽土」実現のために「内面的指導権」という方策を考え出し<た>。現地に住んでいる満州人が国家・組織の長官になり、顧問として日本人が補佐する。つまり、最終的な権限は現地の満州人や中国人の要人たちがもち、満州国に住む日本人はあくまで参考に意見を述べ、応分の範囲内で助言役をつとめる。このようなひとつの理想的な形をつくろうとしたのだ。内面指導権を植民地支配の道具と見る人もいるが、私は石原の善意的発想に基づくものだったと思う。・・・
 もっとも、現実問題として、石原の理念はつぶれていくのである。昭和10年に石原が参謀本部作戦課長に異動となって日本へ戻ると、満州国では次第に関東軍が前面に出て、ついには日本の植民地国家にしてしまうからだ。」(保阪正康『太平洋戦争を考えるヒント』より)
https://books.google.co.jp/books?id=j6opCwAAQBAJ&pg=PT191&lpg=PT191&dq=%E5%86%85%E9%9D%A2%E6%8C%87%E5%B0%8E&source=bl&ots=aX5W-6jp3-&sig=3FzVRsrppritbkB3kRcvbvtADD0&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjqg_nD2urJAhUP7GMKHZUYA_EQ6AEIQDAI#v=onepage&q=%E5%86%85%E9%9D%A2%E6%8C%87%E5%B0%8E&f=false
⇒具体的典拠はなさそうですし、保阪(コラム#7772、7987)に言われても、ですが、ここは、私も保阪と同感です。
 但し、保阪の、「もっとも」以下に関しては不同意です。
 1937年に日支戦争が始まるわけで、それ以降、満州国も戦時体制に入ったはずであり、「次第に関東軍が前面に出」たのは当たり前だからです。(太田)
 表で美辞麗句の御託を並べ、裏で友人に銃口を突きつける、これこそが満州国の姿だった。」(22、24~25)
 「一時期は<日本からの>移民先として、満州も注目された。
 しかし、温暖な気候に慣れた日本人には寒冷地の満州は不向きとされ、政府内では「満州移民不可能論」が多数を占めていた。
 しかし、満州国の建国こそ千載一遇の機会であると、農本主義者で満州移民推進派の加藤完治<(注6)>(1884~1967)たちのグループが動き出した。
 (注6)「東京府立第一中学校、第四高等学校を経て、1911年(明治44年)東京帝国大学農科大学を卒業。大学では直心影流・・・剣道を学んだ。・・・当初は熱心なキリスト教徒であったが、後に古神道に改宗、筧克彦の古神道に基づく農本主義を掲げ、・・・満蒙開拓移民を推進した。満蒙開拓青少年義勇軍の設立にかかわり、1938年(昭和13年)、茨城県<に>・・・満蒙開拓青少年義勇軍訓練所を開設。8万人を輩出した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%AE%8C%E6%B2%BB
 加藤は農林次官の石黒忠篤<(注7)>(1884~1960)らとともに、「6000人移民案」を作成し、閣議に諮る段階に達したが、最後は高橋是清蔵相に一蹴され、否決となった。
 (注7)7高、東大法、農商務省、農林次官、農林大臣。「農業振興、農村救済に取り組み、戦前における農政の第一人者として「農政の神様」と称せられた。また大正末期以降、小作立法制定に精力を費やした石黒であったが、1930年代には満蒙開拓移民に小作問題解決の途を見いだし、加藤完治とともにその推進役となった。また、戦争に対する態度としては日独伊三国軍事同盟に閣内では唯一最後まで反対していたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%BB%92%E5%BF%A0%E7%AF%A4
 満州建国に協力した有力者の馬占山<(注8)>が反旗をひるがえし、満州の治安情勢が急速に悪化したからだ。
 (注8)1885~1950年。「馬占山は、・・・貧しい農民の息子として・・・生まれる。その後馬賊に身を投じるが、張作霖<軍に入る。>・・・
 「満州国」建国・・・の1ヶ月もたたない・・・4月1日に黒河を密かに脱出し、ラジオを通じて東北全土に徹底抗戦を呼びかけて東北救国抗日聯軍を組織した。こうしてゲリラ戦を展開したものの軍事的な劣勢を跳ね返すことはできず、翌1933年(昭和8年・・・)にはソ連へと脱出した。・・・
 1937年の盧溝橋事件ののちは東北挺進軍総司令に任命され、山西省において八路軍と協力しながら抗日闘争を続行した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E5%B1%B1
 加藤グループに属し、農業経済学者で京都帝国大学教授の橋本傳左衛門<(注9)>(1887~1977)は「移民はできぬと思って、失敗ときまったことに金を出すのは、溝に金を捨てるようなものであるというので、大事な大蔵省の方面が猛烈に反対しておった。
 (注9)東大卒。「農業経営学の体系化につとめた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E4%BC%9D%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80-1100896
 その蒙を開くためにどのくらい苦心したか分からない」(・・・)と回想する。
 それでも満州移民推進派はあきらめなかった。
 そんな状況を一変させる出来事が起こった。
 1932年5月15日の五・一五事件だ。
 海軍の青年将校らが農本主義の下、軍閥内閣によって国家改造を目指すと主張し、首相官邸に乱入。
 護憲派の犬養毅首相を殺害した。
⇒明治憲法に規範性がなかったからこそ、「違憲」の政党政治が行われ、犬養が首相になっていたわけであり、彼が「護憲派」とはこれいかに?(太田)
 当時の世論は青年将校らに同情的だったと伝えられる。
⇒当時の二大政党の堕落によって政党政治が機能していなかった、ということです。(太田)
 事件を機に、農村へと関心が向けられた。
 [欠食児童20万人]<(注10)>の問題で、若い娘が身売りする惨状が新聞紙上でも取り上げられた。
 (注10)「家庭の経済的困窮により、十分に食事を与えられていない子供のことである。・・・1930年(昭和5年)に発生した昭和恐慌によって農村は大打撃を受け、東北地方を中心に各地で欠食児童が深刻な社会問題となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A0%E9%A3%9F%E5%85%90%E7%AB%A5
 農林省を中心に、全国各地で農山漁村経済再生運動<(注11)>が展開される中、満州移民に一定の理解も示された。
 (注11)「農本主義者を中心に農村救済請願運動が全国的に展開された。それは,農家負債3ヵ年据置き,肥料資金反当り1円補助,満蒙移住費5000万円補助の請願署名運動で,第62臨時議会(1932年6月)に向けて行われた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BE%B2%E5%B1%B1%E6%BC%81%E6%9D%91%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%9B%B4%E7%94%9F%E9%81%8B%E5%8B%95-1194041
 反対派だった高橋蔵相は軟化し、32年6月の臨時議会で「満州移住地および産業調査に関する経費」として10万余円を承認した。
 続いて試験移民を行う方針も決まった。」(25~27)
⇒その中で、大蔵省、農林省を始めとする官僚機構はそれなりに頑張っていたわけです。
 そして、軍部、とりわけ、陸軍も・・。(太田)
(続く)
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            –私の現在の事情(続x69)–
 本日、損保ジャパン社長、会長を歴任した、佐藤正敏氏の、ホテルニューオータニで行われたお別れの会に行ってきました。
 佐藤さんとは4半世紀前に、まだ、損保ジャパンが安田火災海上であった頃に、ある大規模な異業種交流の会で2~3度一緒になり、1~2度話をしたか、という程度の関係なのですが、それ以来、昨年まで、欠かさず年賀状を送ってこられたので、私にとって身近な存在であり続けた人物でした。
 その年賀状には、勤務先の会社名こそ書いてあったけれど、役職が書いてあったためしがなく、従って、彼が社長、会長になったことも、亡くなったことも気が付かなかったので、お別れの会の招待状が届いてびっくりしました。
 どうして、それだけの関係でお別れの会に出席したかというと、役職を書かないという奥ゆかしさに感銘を覚えたのと、安田火災が会社としてその異業種交流の会に入っていたことから、同社の美術館によく招待されて目の保養をさせてもらったことへの感謝の念、そして、あえて言えば、お別れの会的なもの・・しかも出欠の返事をする形・・に今まで一度も出たことがなかったので、どんなものか、見てみたかったのです。
 11:30~13:00の間の都合のよい時に平服でどうぞ、ということだったので、12:45頃に会場に到着したところ、献花台の前にはもう誰もおらず、一人で遺影に向き合い、別れを告げました。
 そのまま進むと、ビュッフェレセプション会場になっていて、壁には佐藤さんの一生の写真パネルが掲げられていましたが、それを一渡り見た後、知り合いの人が見当たらなかったこともあり、私はオレンジジュースを一杯だけ飲んで退出しました。
 帰り道で、もらった栞を読んだら、彼が全く私と同学年・・但し、彼は慶応経済1972年卒・・ということを、これも初めて知り、私も終活に向き合わなければな、と改めて肝に銘じた次第です。
 五反田で、例によって、洋服の青山に寄ってから、自宅に戻りました。