太田述正コラム#8110(2015.12.23)
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その3)>(2016.4.8公開)
「「満州移民の父」とも称される東宮鉄男<(注17)>(とうみやいわお)(満州国軍の軍事顧問)と加藤完治ら満州民推進派の思惑もあり、北海道の屯田兵をモデルとし、軍務と開墾の双方を担う「武装移民」の構想が具体化していく。
(注17)1892~1937年。「正字は東宮鐵男・・・陸軍軍人。・・・張作霖爆殺事件の実行者であり、満州への移民を推進した中心人物として知られる。日中戦争初期の1937年、歩兵第102連隊大隊長として<支那>で戦死した。死後特進し陸軍大佐となる。・・・群馬県士族で村長も務めた東宮吉勝の元に生まれ<る。>」陸士卒。
「シベリア出兵に参加。この時赤軍の強さを実感し、ソ連のコサック兵をモデルとする武装農民の必要性を痛感、対抗策を模索し始める。1923年(大正12年)1月から1年間広東に私費留学し、<漢>語を身につけた。
張作霖は北平<(北京)>において安国軍政府を樹立し、「陸海軍大元帥」を自称していた。馬賊出身の張が満州の王者になれたのは日本軍の支援の結果であったが、莫大な軍事費を捻出するために、日本人を満州から追い出し、その権益を独占しようとしていた。・・・1926年(大正15年)7月から・・・北伐<が>始<まり>、張作霖軍を討つ事を目論む。北平にあった張作霖は本拠である満州へ戻ろうとするが、張作霖の帰満が戦略に影響することを恐れた関東軍もまた張作霖軍の武装解除を企図した。
しかし、武装解除の作戦地域として想定した錦州は関東軍の衛戍地である南満州鉄道附属地からはずれることから出兵は海外派兵にあたり、手続きの段階で関東軍と参謀本部、政府との調整が取れず、この時点で関東軍は動きを起こせなくなった。そこで関東軍は派兵のために既成事実を作って政府には事後承認を得ることとする。張作霖事件はその一環で、関東軍高級参謀の河本大作大佐を中心に謀られた。・・・
<東宮は、>1928年(昭和3年)6月4日の張作霖爆殺事件に於いて、実行者として爆破スイッチを押したという。・・・
爆殺事件後、<日本に退避させられていた>東宮は・・・勇猛果敢な中隊長<として>、その純情熱血はあらゆる人を感化し、上司の誰もが至誠の人と評価するようにな<るとともに>、人情中隊長として連隊中に知らない者はなく、他の中隊では東宮中隊を羨望したぐらいであった<ところ、>・・・満蒙開拓移民の構想を抱き、しばしば上申した。この構想は・・・関東軍首脳の興味を捕らえた。
1931年(昭和6年)12月に満州出張を命ぜられ、翌年4月関東軍司令部附を補職され、満州国軍政部顧問に就任、満州国軍吉林省警備軍軍事教官を務める。この時、拓務省、・・・加藤完治らと組んで、日本国内から満州への移民を推進した。
なお両者の目的には少しずれがあった。加藤らの目的は日本人による農本主義の実践にあったようだが、東宮の目的は国境付近に開拓団という独立した朝鮮人を主体とする共同体を定住させることで、非常時は防衛拠点・兵站として活用できること、国境付近の匪賊(馬賊)が周辺の一般民衆と結びつく事を抑制できることという2つの点をメリットとして移民(武装農業移民とも言われる)を推進するというものであった。
結局、東宮は、加藤の日本人主体の移民案を受け入れ、1932年(昭和7年)10月、在郷軍人会所属の独身男性からなる第一次武装移民団を結成する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AE%AE%E9%89%84%E7%94%B7
⇒東宮は、日本の武人の鑑的な人物であったようですが、だからこそ、陸大卒業者でないのに、帝国陸軍内で活躍できたのでしょうね。(太田)
片手に銃を持ち、もう片方の手に鍬を持つ、「匪賊」と対峙し、国土を防衛するイメージだ。・・・
懸命に働けば、現地の人たちから信頼が得られ、満州国が掲げる五族協和が実現できると、彼らは考えた。
拓務省<(注18)>内でも入植地をめぐる見解の相違があったが、最終的には満州北部・・・に決定。・・・
(注18)「1929年(昭和4年)から1942年(昭和17年)にかけて日本に存在した省で、外地と言われた日本の植民地の統治事務・監督のほか、南満州鉄道・東洋拓殖の業務監督、海外移民事務を担当した。・・・
しかし、省設置後に始まった満州事変以降に獲得した占領地は軍部が統治していて拓務省が関与できなかったこと、朝鮮総督府には直接の監督権がないなど、当初から問題点が指摘されていた。1942年(昭和17年)に大東亜共栄圏を包括的に管理する大東亜省が設置されると、拓務省は、大東亜省・内務省・外務省などに分割された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%93%E5%8B%99%E7%9C%81
「北満」(満州北部)は未開の原野が広がり、土地問題が避けられる。
国防上、治安の安定が最も求められる地域でもあ<った。>・・・
1932年9月から第一回満州試験移民の募集を開始した。
選出地域は、・・・東北6県と・・・北関東3県、・・・信越2県に限定した。
しかし、応募者は集まらず、何とか定員を埋める状況だった。」(31)
「リットン報告書が公表された<1932年10月2日の>翌3日、第一次武装移民の総勢425人が東京の明治神宮に集合した。
カーキ色の軍服と軍帽に身を固め、リュックサックを背負い、日本刀を携える者もいた。・・・
入植予定地だった・・・一帯では、武装集団の抵抗が根強く続いた。
満州国吉林軍の協力を得て、翌年の1933年2月15日、ようやく完全制圧に至った。・・・
第一次武装移民は3月、・・・地元農民<等>の代表との間で特別移民用地議定書を締結した。・・・
横浜市の広さに相当する・・・約450平方キロ・・・が日本人の土地になった。・・・
締結時、耕作する農家は99戸約400人がいたので、一人5円の立ち退き料を支払い、4月中に移転を完了させた。
ちなみに、5円とは日本人移民1人に支払われた1か月分の食事代に相当した。・・・
⇒二松は、典拠を付していないので、このくだりの記述の真偽を見極めることができません。(太田)
その後、武装集団の襲撃や・・・ホームシック<等により、>・・・198人が退団する。」(32~33)
「満州の匪賊<(注19)>は、盗賊とは異なった。
(注19)「東亜同文書院を卒業して満州の建国大学教授となった中山優(1894 – 1973)は、「匪賊」の種類として、土賊・冦賊の類、兵匪、共匪などを挙げている。満州の馬賊もその一種であると言う。
土賊・冦賊は地方に巣食う群盗で、無頼の民や職にあぶれた農民が身を投じた。仕事があれば野良に出、なければ群れて賊となり、この種の集団が武器を手にしたのが土匪である。
軍閥の中には、匪賊と大差のないものもあった。兵士たちは給料の欠配や統率者への不満から容易に暴動(兵変)を起こし、放火・掠奪・殺人を行った。軍閥兵士や敗残兵が賊徒化したものが兵匪である。満州事変後、満州地域では「兵匪」が増加した。多少とも軍事的訓練を受けていた上、各自が銃器を所持しており、当局には対処が困難であった。
共匪は、共産党まがいの匪賊で、また、共産党軍そのものも指した。各種の土匪の中には、一団をなして共産党軍の指揮下に入り、共産党のスローガンを叫んで活動するものもあった。・・・
馬賊は満州特有の武装集団であり、その成員の大部分が騎乗することから日本ではそう呼ばれている。・・・規律は厳格<だ>・・・った。尤もこれは馮麟閣、張作霖などが活躍した時代の話で、後には馬賊道も堕落し普通の匪賊と変わらなくなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%AA%E8%B3%8A (←典拠が全く示されていない!)
警察組織が不十分だった満州では、農民が一定の「税」を収める代わりに、雇われた匪賊が外部からの攻撃を退けた。
いわば私設の用心棒だった。<(注20)>
(注20)満州の匪賊の代表格である「馬賊<は>・・・、元々は自衛組織(土匪・匪賊)の中の遊撃隊のような役割であった。当時の満洲では清朝の衰退によって治安が悪化しており、盗賊がはびこっていたためである。・・・
また、満洲で日本軍の支配が強くなるにしたがい、馬賊は日本人とも衝突するようになり、満洲各地で日本軍ないし日本人を襲う事件が発生する。・・・しかし、全ての馬賊が反日姿勢を示したわけではない。当時は、外蒙古の支配を確実にした<ソ連>が満洲での影響力を高めるための工作手段として馬賊を利用しようとしており、同時に内蒙古・満洲の共産主義化を食い止めるため関東軍も馬賊を利用していた。日ソ双方の思惑により、馬賊は機動工作部隊としての色を帯びていく事となる。
また、馬賊の中には軍閥に成長するものもあった。馬賊出身の軍閥としては張作霖・馬占山等が有名であるが、彼らは当時<支那>で繰り返されていた政権交代の混乱に乗じて、その時々の政権の軍事的後見を担う事で連携していた(当時の<支那>には徴兵制度等はなく、政権に雇われた馬賊が「正規軍・政府軍」であり、また、馬賊の頭目が勝手に官職や軍の階級を自称する例もあった)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%B3%8A
但し、匪賊一般について言えば、「土匪の中には税を課するものもあった。人民の方でも政府の軍隊は当てにならず、絶えず土匪に脅かされるよりはと、地租に応じて金銭を土匪に収めて略奪を免れる所も少なくなかった。中には土匪が官憲になりすまして課税したり、一箇所に居を構えて通行税をとるものもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%AA%E8%B3%8A 前掲
しかし、満州事変以降、土地を奪われた中国人農民が匪賊化したほか、日本人に反抗しただけで中国人農民を匪賊と断定した。
日本人自身が匪賊を生みだし、それを日本人が討伐する繰り返しだった。
しだいに匪賊と中国人との線引きは曖昧になっていく。<(注21)>」(34)
(注21)「日本による支配に抵抗する抗日組織も、日本側から「匪賊」のカテゴリーに含まれることになった。」(上掲)
(続く)
二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その3)
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