太田述正コラム#8112(2015.12.24)
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その4)>(2016.4.9公開)
「日本人移民団が入植した一帯の治安悪化は深刻だった。
関東軍は土地の大量取得によって一気に問題解決を図ろうと、「匪賊」の温床とされる地域から中国人を一掃する方針を掲げた。
1934年2月、名ばかりの土地買収会議が<現地で>開かれた。
土地買収の価格は不当に安く、対象は、・・・<の>6県の可耕地のうち60%に及んだ。
土地を追われた農民たちは、豪農で自警団の団長だった謝文東を頼った。
彼は、関東軍からも信頼されていたが、反満反日の立場に変わり、武装蜂起を決意した。
謝の一団は土龍山に集結し、「東北民衆自衛軍」を名乗った。
自衛軍は数千人に達し、3月9日、土龍山警察隊を襲撃、依蘭事変(土龍山事件)<(注21)>が始まった。
(注21)「土竜山一帯は、依蘭・樺川・勃利三県の境界にあり、土地は肥沃で、農耕に適した地域であった。1934年1月、関東軍はこの一帯に日本人武装移民を入植させるため、依蘭、樺川、勃利各県を初めとする6県で、可耕地の大規模な強制買収を始めた。買上価格は、熟地と荒地とを分けずに、一律1ヘクタール当たり1元とした。当時依蘭県の土地時価は、熟地で121元から60元、荒地で60元から40元であった。・・・また関東軍は、治安維持を理由に農民が自衛のため所持していた銃器類を没収した。当時北部満州地区で、警備網も手薄であり、自衛のために銃器類は必要であった。このように農民たちにとっては生命と財産の保障が失われると感じられたのである。・・・
本事件は初期の満州移民政策に見直しを迫ることになる一方で、満州における抗日統一戦線の契機になった。具体的には、1935年7月「満州国」政府に拓政司が設置された。すなわち、建国当初は入植状況の把握すらできず政策実施に全く関与できなかった「満州国」政府が、本事件の勃発を受けて、日本人移民の政策実施に参与する転機となったのである。
事件後、買収工作は満州国政府がこれを引継ぎ、関東軍は武装討伐を行った。1936年(昭和11年)9月、謝らは中国共産党系の東北抗日連軍に合流し、第8軍を編成した。その後の1939年(昭和14年)3月、謝は日本側に帰順し、戦後国民党に就いて中国共産党軍と対峙したが、1946年末には捉えられ、斬首刑に処せられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%AB%9C%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒二松は、「土地買収の価格は不当に安」かったとし、この事件の日本語ウィキペディアも、「植民地文化学会、中国東北淪陥14年史総編室「日中共同研究『満州国』とは何だったのか」小学館(2008年)<★>243ページ」を典拠として、「1ヘクタール当たり1元」説を記述していますが、満州国政府は「各方面の聯絡協調の方法を講じ至当なる価格と住民の安住とを考慮して行われたるものなるも民衆に対する徹底未だ充分ならざりしに加え各種の予期せざる事象の累積を見、之を巧みに謝文東一派に利用せられたる結果小波瀾を生じたる」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00472730&TYPE=HTML_FILE&POS=1
ものとしており、具体的な数字抜きの声明ではあるものの、日本の拓務省というれっきとした官庁が所管した事業が、「一律」とか「相場の何十分の1」といったような杜撰かつ途方もない価格付けで行われたはずがない、というのが私の直感です。
そもそも、歴史研究において、学術的な「日中共同研究」など、まだまだ行いえないのであって、恐らく★は、基本的に関係「史料」を握っているところの、中共側の主張がそのまま記載されたものではないでしょうか。(太田)
自衛軍は「日本人移民団の壊滅」を叫び、最大1万人近くの農民が結集したと伝えられる。
第二次武装移民は数千人の農民に包囲され、75日に渡り籠城する事態にまで追い込まれた。
5月に入り、ようやく関東軍討伐隊が到着し、反乱を鎮圧した。
満州に渡った日本人移民の精神的な影響は計り知れなかった。
⇒二松でさえ、日本人移民の死傷者数をあげていません。
はっきりしているのは、日本の「歩兵第63連隊が駆け付けたが、連隊長以下19名が戦死」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%AB%9C%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
したことくらいです。(太田)
その後、関東軍の報復攻撃は徹底した。
数か月にわたり、蜂起軍への攻撃を続け、5000人以上を殺害した。
⇒上掲ウィキペディアすら言及していない数字であり、到底信頼が置けません。(太田)
規模から見ると、戦争だった。・・・
入植地では、治安対策の失敗を繰り返し、無用に匪賊を増やしたが、これを逆手に取り、匪賊が出没する地こそ日本人移民が赴き、治安維持に当たるべきだという論調に変わった。
いつのまにか、武装移民の「失敗」は「成功」にすり替わり、1932年度の第1次から35年度の第4次まで4年間の試験移民は1785戸に達した。
先兵としての役割は終わり、都道府県を単位とする満州移民の幕開けとなる。」(35~37)
(続く)
二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その4)
- 公開日: