太田述正コラム#8114(2015.12.25)
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その5)>(2016.4.10公開)
「<1936年の>二・二六事件は日本史の分水嶺になった。
軍部の発言権が強まり、議会の歯止めが利かなくなった点だけではない。
⇒二松は、二・二六事件を契機に、議会が、それまで、政争のための政争に明け暮れてきたことを反省するに至り、有事化する国際情勢の下、軍事により大きな資源配分を行うことになった、とでも書くべきでした。(太田)
満州移民にも多大な影響を及ぼした。とりわけ強硬な否定論者だった高橋是清<(コラム#965、2253、3445、3522、3677、3685、4231、4237、4245、4247、4337、4383、4515、4616、4618、4738、4744、5079、5598、5602、5686、7143、7719)>の死は大きかった。
昭和恐慌を乗り切り、犬養毅、斎藤実、岡田啓介の内閣を通じて蔵相を務め、その風貌から「ダルマさん」と呼ばれ、国民から広く慕われた。
高橋の財政政策が軌道に乗り始め、財政健全化のため公債漸減方針を掲げ、軍事費削減に取り組もうとした矢先だった。・・・
⇒ケインズ政策の先取り的財政政策を行ってきた高橋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%98%AF%E6%B8%85
が、国際情勢に疎かったために、最悪の時期に財政健全化を推し進めようとした、というだけのことです。(太田)
満州移民の推進を図りたい東京帝国大学教授の那須皓(しろし)<(注22)>と京都帝国大学教授の橋本傳左衛門が会見を求めた際、両教授から「まだ現地に行った経験がない」と聞くと、高橋は軽く一蹴した。
(注22)1888~1984年。「1911年に東京帝国大学農科大学(のち東京大学農学部)を卒業後、1917年に助教授、1922年には教授となる。「日本農業経済学会」を結成して農業経済学の日本における普及を図る一方、農林省の石黒忠篤と親交が深く、頻発する小作争議や農村の貧困問題の解決などの研究を行い、後に農林大臣となり「農政の神様」と称されるようになった石黒の側近・ブレーンとして活躍した。また、軍部の台頭に危惧を抱いて、アジア太平洋地域との平和的な交流に尽力した。1937年には石黒や加藤完治・橋本伝左衛門(京都帝大教授)らとともに「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する意見書」を政府諸官庁に提出、国内農業問題解決のための満蒙開拓移民の推進役となった。・・・
<戦後、>駐インド兼ネパール大使<を務める。>」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E7%9A%93
⇒上掲ウィキペディアは典拠が全く付されていませんが、仮に、那須が、本当に「軍部の台頭に危惧を抱いて」いたのだとすれば、(橋本は恐らくはそうではなかったのでしょうが、)講壇エコノミストの那須と実務エコノミストの高橋という両国際情勢音痴同士の珍会談が行われた、ということになりそうです。(太田)
試験移民の予算は認めたが、その後も、大蔵省は慎重な姿勢を崩していない。
満州移民推進派にとって高橋は最も厄介な存在だった。・・・
その後、関東軍が実施する方針を決め、1935年に大勢が決まってもなお大蔵省は承知しなかった。
⇒前述したように、試験移民が、そもそも関東軍主導でもって、対赤露抑止の観点から、満州の赤露との国境地帯への日本人の屯田兵的入植を念頭に推進されてきたわけであり、その拡大に反対したことに端的に表れているように、政友会/高橋(上掲)は、対赤露抑止という、国策の基本を蔑ろにしたのですから、帝国陸軍の若手将校達の怒り、ひいては当時の日本の広範な国民の怒りを買ったのもむべなるかな、でしょう。(太田)
高橋が大蔵大臣に踏みとどまる限り、満州移民の本格実施は難しい。
年間500人単位の試験移民として、細々と継続する道しかなかった。
そんな強固な砦が二・二六事件によって突然なくなった。・・・
岡田啓介内閣<が>総辞職し・・・広田弘毅・・・内閣の誕生によって大陸政策は積極策に転じ、振り子のように揺れ動いていた満州移民は「是」と定まった。
関東軍は1936年5月、20年間で100万戸500万人(一世帯5人と計算)が入植する「満州農業移民100万戸移住計画」を打ち立てた。
当時、多民族国家の満州国の全人口は3400万人、20年後の56年には5000万人に達すると予測され、満州の安定には1割に相当する500万人の日本人が欠かせないと考えられた。・・・
具体的な入植地としては、・・・日本人が少ない辺境部を中心に11ヵ所を挙げ、総面積は計1000万町歩(約10万平方キロ)に及んだ。
現在でいえば、日本の国土の4分の1以上に相当する。・・・
1936年当時、日本本土の総人口は約7000万人であり、満州移民500万人は約7%に相当する。
日本人100人につき7人が満州に渡る計画だった。
国や地方の姿を丸ごと変える可能性さえあった。・・・
満州移民とは、満州の日本化どころではなく、満州そのものを日本にする試みだった。」(38~42、44)
⇒二松は、なんと冒涜的な言辞を弄していることでしょうか。
満州、ひいては、支那本体や朝鮮半島を赤露から守るためにこそ、満州に駐留していた関東軍に協力して、日本の農民達が、満州の僻地において、冬の酷寒にもかかわらず、また、馬賊等から攻撃を受ける危険を顧みずに、人間主義的貢献を行ったのが満州移民だったというのに・・。(太田)
(続く)
二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その5)
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