太田述正コラム#8120(2015.12.28)
<二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その6)>(2016.4.13公開)
「1937年7月7日午後10時頃、北平(現在の北京)郊外の盧溝橋付近で・・・日本軍部隊・・・と近くにいた中国軍の間で小競り合いが起こった。・・・<いわゆる>盧溝橋事件<である。>・・・
戦争は、満州移民を進める上で決定的なマイナス因子だった。
まず農村の若年層が大量に出征する。
⇒このことは、必ずしもマイナス因子とは言えないのではないでしょうか。
「満州国の建国から敗戦時に至るまで、一貫して「満州」・・・への日本人農業移民事業の主導権を関東軍<・・すなわち陸軍(太田)・・>が握っていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E8%92%99%E9%96%8B%E6%8B%93%E9%9D%92%E5%B0%91%E5%B9%B4%E7%BE%A9%E5%8B%87%E8%BB%8D
ところ、日本人徴兵適齢層の中には、陸軍によって受動的に徴兵されることよりも、同じ陸軍が推進していた、(常識的にはより危険度が低いと目されたはずであるところの、)満州移民を積極的に選ぼうとする者だっていたはずだからです。(太田)
次に戦争は特需をもたらし、産業界も労働力を必要とする。
そうなれば日本国内では人手不足が生じ、移民の余地はない。
しかし、満州移民推進派は周到に準備していた。
一つの策が満蒙開拓青少年義勇軍<(注23)>であり、もう一つの策が分村移民だった。
(注23)「1938年(昭和13年)から1945年(昭和20年)の敗戦までの8カ年の間に8万6,000人の青少年が送りだされた。これは満州開拓民送出事業総体の人員の3割を占めて<いる、>・・・成人移民は貧農層が中心だったのに対して、青少年義勇軍は高等小学校の成績上位・中位層が中心となった。」(上掲)
義勇軍は10代の少年を中心とした。
これに対して、分村移民は農村から移民を満州へ送って新しい村を建設し、女性や子ども、高齢者を含めた参加を前提とした。
義勇軍と分村移民は双方の利点を補完し合い、老若男女すべてを移民の対象とし、余さず日本人を移民の”駒”として活用する発想だった。・・・
推進派<は、>・・・1937年11月3日、「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」と題する文書を、近衛首相ら全閣僚に提出し、署名人に、農村更生協会理事長の石黒忠篤、満州移住協会理事長の大蔵公望<(注24)>(きんもち)、同理事の橋本傳左衛門・那須皓・加藤完治、日本連合青年団理事長の香坂昌康<(注25)>の6人が名を連ねた。・・・
(注24)1882~1968年。東大卒。「鉄道院をへて・・・満鉄にはいり・・・理事となる。<やがて>貴族院議員。国策研究会の設立にかかわり、東亜研究所副総裁などを歴任。戦後は、日本交通公社会長、国鉄幹線調査会長をつとめた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E5%85%AC%E6%9C%9B-1060077
(注25)1881~1967年。「東京府立一中、錦城中学、一高を経て、<東大法>卒業。・・・文官高等試験合格、・・・内務省入省。・・・福島県・・・愛媛県・岡山県・愛知県各知事を歴任。・・・退官<後、>・・・東京府知事に復帰。<その後、>大日本連合青年団兼日本青年館理事長。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%9D%82%E6%98%8C%E5%BA%B7
<満蒙開拓青少年義勇軍については、>閣議を経て、1938年1月に「満蒙開拓青少年義勇軍募集要項」を作成し、全国一斉に募集が始まった。
義勇軍の応募資格は数え年で16歳から19歳までとし、尋常小学校の卒業者であれば、職歴は問わなかった。
茨城県の内原訓練所で約2か月、満州の現地訓練所で約3年の農事訓練と軍事訓練を受けた後、開拓地へ入植した。
新聞や雑誌では「昭和の白虎隊」ともてはやし、初回は定員5000人に対して、2倍に近い応募があった。・・・
児童文学者上笙一郎<(注26)>は犠牲者を2万4200人と推定し、「新たに獲得した治安不良の植民地へ少年だけを武装入植させたという例は、満蒙開拓青少年義勇軍のほかには皆無であった。
(注26)かみ しょういちろう(1933~2015年)。「1945年、文化学院卒。売文業をしながら児童文学、女性問題を研究し、青地晨に師事する。1959年、山崎朋子と結婚、共著『日本の幼稚園』で1966年、毎日出版文化賞受賞、1981年、共著『光ほのかなれども』で日本保育学会保育学文献賞、1990年、『日本児童史の開拓』で日本児童文学学会特別賞、2006年、『日本童謡辞典』で日本童謡賞、三越左千夫少年詩賞特別賞受賞。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%AC%99%E4%B8%80%E9%83%8E
あの悪名高いナチス・ドイツですらも、そのようなことは考えもしなかった。」・・・と厳しく糾弾した。」(46~48)
⇒上の言も、また、この言を引用した二松も、どうかしています。
日支戦争が始まっている中で、3年2か月も農業と軍事の教育を受けて、ほぼ成人になってから、恐らくは徴兵されることなく、「開拓」に従事するのですから、むしろ、青少年義勇軍要員は優遇されていたわけであり、だからこそ、「高等小学校の成績上位・中位層が中心となった」と考えられるからです。(太田)
(続く)
二松啓紀『移民たちの「満州」』を読む(その6)
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