太田述正コラム#0374(2004.6.8)
<アブグレイブ虐待問題をめぐって(その7)>
(8)米軍
リーダーシップが一番問われるのは米軍内部においてでしょう。
話題の中心になっているのは、既にこのシリーズで何度か登場した、予備役軍人として招集を受けて第800憲兵旅団長となり、イラクに派遣されたカルピンスキ准将です。彼女は今年1月から任務を解かれて米国に帰ってきていますが、彼女に対してはまだ何の行政上司法上の処分もなされていません。
彼女は事件の報道がなされた直後までは沈黙を守っていたものの、その後一転して、自分は虐待事件について全く責任がなく、責任はもっぱら、自分の異議を無視して軍諜報部隊にアブグレイブ内の特定の収容ブロックをコントロールすることを認めたイラク派遣米軍上層部にある、と主張し、本来業務である企業コンサルタントの仕事に復帰することなく、積極的にマスコミに登場して自分を守るキャンペーンを行っています。
彼女は、そもそも軍でのこれまでのキャリアの中で、収容所の管理の業務に携わったことなどなかったことから、軍が自分を収容所を監督する職に就けたこともおかしいとまで言っています。また、自分には十分な人員と資源が与えられていないと何度も意見具申したのに無視されたとも指摘しています。更に、軍諜報部隊に尋問の邪魔になると言われ、彼らがコントロールしている収容所への訪問を自粛せざるを得なかった、とも述べています。
軍関係者はおしなべて、カルピンスキのこれら言動に眉を顰めています。
自分以外のあらゆる人間を非難したり、自分の部下の非違行為の責任をとろうとしないのは、軍の上級幹部としてはあるまじきことだというのです。
これに対し、民間サイドから、カルピンスキは本来的な意味での軍人ではなく、あくまでも予備役軍人に過ぎず、民間人でもあるのだから、攻撃的自己防御方法をとるのは当たり前ではないか、と彼女を弁護する声も出ています。
(以上、http://www.latimes.com/news/nationworld/iraq/la-na-karpinski3jun03,1,7471582,print.story?coll=la-home-headlines(6月3日アクセス)による。)
この「論争」を理解するためには、米国における軍の特異な立場を理解する必要があります。
米国には、アングロサクソン由来の反軍感情、より正確には反常備軍感情があります。そこで、軍は、精強であり続けることでその存在意義を国民に対してアッピールして来たという経緯があります(拙著「防衛庁再生宣言」171??173頁)。
その軍が、もう一つウリにしてきたのは、軍が一般市民生活とは対蹠的な、しかし社会の存続にとって不可欠な文化を担ってきた、という点です。
それは、自分が所属する組織(社会)への自己犠牲的献身という文化であり、その組織(社会)のリーダーによる無限責任の受忍という文化です(注7)。
(注7)戦中から戦後の日本社会においては、このような軍事的組織文化が、総動員体制の構築、維持に伴い、つい最近まで社会全体を覆い尽くしてきた。ちなみに、約半世紀にもわたって総動員体制が維持され、しかもその総動員体制が、戦後においては軍隊(軍事)抜きのものであった、という二点で、20世紀中期以降の日本の歩みはまことにユニークなものだった。
このような組織文化を身につけた人々を一般市民社会に還元することによって、軍は、欲望の充足を求める個々の市民の赤裸々なエゴがぶつかりあうジャングルのごとき米国社会、の瓦解を防ぎ、統合を図るという重要な役割を担ってきたのです(注8)。
(注8)典拠失念。米大統領は、何よりもまず軍の最高指揮官として米国の統合を象徴する存在なのだ。もとより、かかる役割を担ってきたものとして、キリスト教やイギリス譲りのコモンローの存在も忘れてはならない。
(続く)