太田述正コラム#8158(2016.1.16)
<ロマノフ王朝(その1)>(2016.5.2公開)
1 始めに
最近、英米のめぼしい新刊本(の書評類)に遭遇しないのですが、ひょっとして、英米圏の知的生産力の相対的どころか絶対的衰亡を意味しているのかもしれません。
とはいえ、不満足ながらも、久しぶりに英米の新刊本を取り上げることにし、サイモン・モンテフィオール(Simon Sebag Montefiore)(コラム#1775、1777、1779、1850、1866、2750、5033、5095。5802)の、1月28日に刊行される、『ロマノフ王家(The Romanovs:):1613-1918』のさわりを、書評類をもとにご紹介し、私のコメントを付したいと思います。
A:http://www.ft.com/intl/cms/s/0/97ed0ed0-ba36-11e5-b151-8e15c9a029fb.html
(1月16日アクセス(以下同じ)。書評(以下同じ))
B:http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/the-romanovs-1613-1918-by-simon-sebag-montefiore-book-review-a6813111.html
C:http://oxfordliteraryfestival.org/literature-events/2016/april-10/the-romanovs-1613-1918
(この本についての著者による講演に関する予告)
D:http://www.standard.co.uk/comment/comment/simon-sebag-montefiore-the-perpetual-drama-of-russia-and-britain-s-historic-relationship-a3151611.html
(今月掲載された、英露関係についての著者のコラム)
2 ロマノフ王朝
(1)序
「・・・我々がプーチンの専制と火遊びを非難する一方で、我々は、自身のロシア・マニア性向に捉われている。
というのも、クレムリンはパラノイア的にその反対のことを言っているけれど、我々は、トルストイ、プーシキン、エルミタージュ美術館、ボリショイ劇場、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチ、といったロシアの文化と歴史を崇敬するとともに、ロマノフ家の諸勝利や諸悲劇に心を動かされているからだ。・・・」(D)
「・・・モンテフィオールは、聖なる帝国を容赦なく建設したものの、その諸人生が、宮廷諸陰謀、家庭内諸競争、性的退廃、及び、甚だしい贅沢で曇らされていたところの、20名の皇帝達と女帝達の物語を伝える。
皇帝達のうちの6名は殺害されたし、彼ら全員が自分達の人生を恐怖のうちに送った。
<物語の>配役には、自分自身の息子を拷問死させたピョートル大帝、自分の夫を退位させ、その夫は少し後に殺害されたところの、エカテリーナ大女帝、そして、ラスプーチン。・・・」(C)
(2)歴史
ミハイル・ロマノフ(Michael Romanov)<(注1)>は、弱虫(weakling)だったが、1613年にロマノフ家の最初の皇帝(tsar)になると、その危険な試練に生き残る。
(注1)1596~1645年。ツァーリ:1613~45年。「1610年ヴァシーリー4世の退位後、ロシアではツァーリ不在の動乱時代における「空位期間」に陥ったが、1612年国民軍はクレムリンに拠るポーランド軍を一掃し、モスクワを取り戻した。その後、1613年2月、人民、コサックも参加した全国会議にてミハイルはツァーリに選出され、これにより動乱時代は終結した。選出には、フョードル1世の母アナスタシアを大伯母に持つリューリク朝の姻戚であること、また16歳の少年のため動乱時代以降、モスクワの国土の多くを占領する隣国ポーランドやスウェーデンと結んだ「汚い過去」が無いことなどが有利に働いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%95
それは、誰もこの国が再び内戦に突入することを望まなかったからだ。
ミハイルと彼の後継者は、自分達の妻達を「花嫁コンテスト(brideshow)」・・地方郷紳の娘達をクレムリンに招致した・・によって選んだ<(注2)>。
(注2)ミハイルは、2度結婚しているが、最初の妻は、「結婚後わずか4か月で急逝した。・・・難産が原因で死んだらしく、ミハイルは妊娠していた女性と結婚したことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B4%E3%82%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1
⇒ミハイルの最初の后の産褥死の挿話といい、「花嫁コンテスト」といい、さすが、欧州の「外延」のロシアにあいふさわしく、王侯貴族と言っても、その程度の「洗練度」であったということですね。(太田)
その狙いは、皇帝が宮廷の特定の派閥と繋がりのある若い女性と結婚するのを回避するところにあった。
当時の西欧の王家の中で、自分達の王女達を、皇帝の王冠が依然モンゴルの頭飾り(headdress)であるような、野蛮な場所に送ることを躊躇しない家はなかった。・・・」(A)
ロマノフ家の2番目の皇帝のアレクセイ(Alexei)<(注3)>は、ロシアの三つの災厄群が、「チフス、タタール人達、ポーランド人達(Poles)」であった当時にあって、断固とした軍事指導者ではあった。
(注3)Alexei Mikhailovich Romanov。1629~76年。皇帝:1645~76年。「ミハイル・ロマノフの長男・・・
治世<中に、>・・・貴族会議や全国会議の存在感が急速に薄れ、官僚の補佐を受けたツァーリが自ら専制政治を行うようになった。・・・
1649年に開かれた全国会議において制定された会議法典は、都市民と農民は移動の自由を奪い、特にこの法典によって農奴制は法的完成に至った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%A4_(%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E5%A4%A7%E5%85%AC)
しかし、1654年にポーランド人達をスモレンスク(Smolensk)で打ち破った後、三番目の脅威がスウェーデン人達(Swedes)の形で立ち現れた。
アレクセイは、最終的に、平和を乞う立場に追い込まれるのだが、モスクワに帰還後、彼は、彼の腐敗した義理の父親が<銀の>貨幣を銅でもって改鋳していたことを発見した。
<改鋳に反発して>同市で暴動がおこったのだが、その報復は、野蛮なものであり、拷問、吊るし、舌のちょん切りだった。
アレクセイが1676年に亡くなると、彼の妹のソフィア(Sophia)が摂政として彼の二人の小さい息子達を補佐し、後に、ロシア正教の分離派(schismatic)<(注4)>達約20,000人を焼殺した。
(注4)「形式主義への偏重を中庸の状態に適正化させる事。およびロシア正教会の形式を、正教世界の中心たるロシアに相応しくギリシャに倣ったものとし、ギリシャの奉神礼・伝統・祈祷書を取り入れることで正教会世界の標準的地位をロシアに確立する事。以てカトリック教会への対抗とする。これらが・・・ツァーリであるアレクセイの支持を受けて総主教に着座し<た>・・・ニーコン・・・によって目指された。・・・
こ・・・の改革に反発した人々は改革を受け入れた人々から「分離派(ラスコーリニキ)」と蔑称された。正教古儀式派が中立的な呼称である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E3.83.8B.E3.83.BC.E3.82.B3.E3.83.B3.E7.B7.8F.E4.B8.BB.E6.95.99.E3.81.8A.E3.82.88.E3.81.B3.E3.81.9D.E3.81.AE.E5.BE.8C.E3.81.AE.E6.94.B9.E9.9D.A9
(続く)
ロマノフ王朝(その1)
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