太田述正コラム#0376(2004.6.10)
<ロナルド・レーガン(その2)>
5 勧「善」懲「悪」外交
(1)ソ連
レーガンは共産主義の総本山のソ連を「悪の帝国(evil empire)」と呼び、ソ連のSS-20に対抗するため、西欧にパーシング??とGLCMを配備してソ連に圧力をかけました(注3)。
これに加えて、ミサイル防衛(Star Wars)構想をぶちあげ、在来兵力の質量ともの増強にも勤しみました。
こうして米国に経済力と科学技術力で圧倒的に劣るソ連は追いつめられて行きます。
その上で、ブッシュは政権後半に至って、今度はソ連に手を差し伸べ、ゴルバチョフソ連大統領との間で、ソ連との信頼醸成と核軍縮に成功するのです。
(注3)ソ連がSS-20を西欧に打ち込めば、米国はパーシング??等をウラル以西のソ連心臓部に打ち込むことになるが、これは米国が無傷なままソ連が一方的に壊滅的打撃を受けることを意味した。私は当時これを垂直エスカレーション戦略と名付けた(「虚像に満ちた日本の防衛論議」(小学館発行の雑誌(その後廃刊)「コモンセンス」1984年7月号)掲載の拙稿。「21世紀の防衛を考える会」という仮名で執筆)。ソ連が通常兵力で西欧や中東に侵攻してきたら極東で日本を根拠地として通常兵力で反撃する(ソ連のオホーツク海周辺地域の占領と極東所在第二撃戦略核戦力の撃破)という水平エスカレーション戦略(コラム#30)からのアナロジーだ。
(2)核
レーガンは前述したように、ミサイル防衛構想をぶちあげ、政権の後半にはソ連に核の全面撤廃を持ちかけます。レーガンは大真面目にミサイル防衛技術をソ連と共有することを考えていました。
それもこれも、レーガンが、核兵器が「悪」であるとの認識を持っていたためです。
(3)第三世界
レーガンは、ソ連を主敵にすえ、反ソ政権や運動はすべて支援し、親ソ政権や運動にはことごとく敵対しました。(これをReagan DoctrineないしThird World Rollbackと呼ぶ。)
例えば、カンボジアでは、親ソのベトナムの後押しを受けたヘンサムリン政権が放逐した世界の鼻つまみのポルポト政権の国連代表権の維持に努めました。
(以上、http://www.guardian.co.uk/Columnists/Column/0,5673,1233817,00.html(6月9日アクセス)による。)
同様の考え方に基づき、中南米ではキューバの経済封鎖を続け、エルサルバドルとニカラグアの内戦に介入し(注4)、グレナダのような小国にも海兵隊を送り込んだ(注5)ため、いまだにレーガンは中南米では悪評さくさくです(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A19167-2004Jun5.html。6月7日アクセス)。
(注4)エルサルバドル内戦(1980??1992年)時に政府に40億ドルを支援し、この内戦時に75,000人以上が命を落とした。ニカラグアのサンディニスタ政権下の内戦(1982??1990年)時には反政府のコントラ側に10億ドルを支援し、この内戦時に約50,000人が命を落とした。また、内紛が36年間も続き、200,000人以上が命を落としたグアテマラの政府を支援し続けた。(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A29546-2004Jun9?language=printer、エルサルバドル内戦:http://www.pbs.org/itvs/enemiesofwar/elsalvador2.html、ニカラグア内戦:http://www.atlapedia.com/online/countries/nicaragu.htm(6月11日アクセス))
(注5)1979年にビショップ(Maurice Bishop)率いる共産主義勢力がクーデタを起こしてグラナダの政権を掌握したが、1983年に再びクーデタが起こってBishopが殺されるや、レーガンは、カリブ海の5ミニ国家の「協力」の下、治安の回復とキューバのミサイル撤去を目的として海兵隊1900人を送り込み、グラナダを占領した(http://www.infoplease.com/ipa/A0107592.html。6月11日アクセス)。
(以上、特に断っていない限り、ガーディアン前掲による。)
以上を総括するとどういうことになるでしょうか。
レーガンが大統領に就任したとき、米国は三つの脅威に直面していました。
それは日本の経済的脅威(注6)、ソ連の軍事的脅威、イスラム過激派の治安上の脅威の三つです。
(注6)早くも日本人は、かつての高度成長日本が米国にとってソ連に勝るとも劣らない脅威であったことを忘れかけている。1974年に米国のスタンフォード大学に留学した時のことだ。ビジネススクールでの経済学の最初の授業の冒頭、教師が「石油危機が勃発したことにより、日本経済もこれで一巻の終わりだろう。ざまを見ろ」と語ったことを今でも昨日のことのように鮮明に覚えている。
最初の二つの脅威については、たまたまレーガンが大統領職から退いた直後に、片や日本はバブルがはじけてその経済が「沈没」てしまい、片やソ連は崩壊してしまい、どちらについても後世の米国の史家から、それがレーガンの功績として讃えられる可能性があります。
ソ連の崩壊については、ソ連の経済システムが疲弊してきていたこと、そこに更にCIAが大打撃を与えたこと(コラム#261)、ゴルバチョフという相手に恵まれたこと等を考慮したとしても、なおレーガン自身の功績を認めざるを得ません。
日本経済の「沈没」への米国の「関与」については、別の機会に論じたいと思います。
しかし、最後のイスラム過激派の脅威への対処については、レーガンに不合格点がつくことが既にはっきりしています。
(続く)