太田述正コラム#0377(2004.6.11)
<ロナルド・レーガン(その3)>

 (コラム#375のサプライサイド経済学がらみの記述を訂正してホームページに再掲載してあります。)

 第一にレーガンは、1982年に米海兵隊を平和維持目的でレバノンに派遣しますが、1984年にはシーア派過激派の自爆テロによって海兵隊241名が殺害され、なすところなくレバノンからの撤退に追い込まれてしまいます(http://www.special-warfare.net/data_base/102_military_unit/001_military_us/us_military_forces_03.html。6月10日アクセス)。
 第二に、1982年暮れに米議会が、CIAと国防省の予算をニカラグアのサンディニスタ左翼政権打倒のために使うことを禁じたところ、ホワイトハウス内のポインデクスター(John Poindexter)国家安全保障会議(National Security Council)事務局長はスタッフのノース(Oliver North)中佐らを使って、国連安保理が(そして米国政府自身も)武器禁輸国に指定していた、イラン・イラク戦争(1980??1988年)中のシーア派過激派総本山のイランに武器を輸出し、その収益をニカラグアの親米反乱勢力であるコントラへの支援活動費にあてるという非合法工作を実施しました。この工作が1986年に露見する(イラン・コントラ事件=Iran-Contra affair)と、レーガンはポインデクスター以下のトカゲのシッポ切りを行い、1987年、結局自らは責任追及を免れたのです(http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/3788229.stm及びhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/usa/iracongate.htm(6月10日アクセス))。
 第三にレーガンは、1983年暮れにわざわざラムズフェルト特使(現国防長官)をイラン・イラク戦争(上述)中のイラクに派遣し、米国の敵イランの敵であるフセイン大統領に誼を通じただけでなく、翌1984年にはイラクが化学兵器を使ったことを知ったにもかかわらず、見て見ぬふりをしました(http://slate.msn.com/id/2101829/(6月6日アクセス)及びhttp://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB82/(6月10日アクセス))。
 第四に1986年4月、リビアの最高指導者のカダフィー大佐が、西ドイツ駐留米軍へのテロ攻撃を行ったことを知ったレーガンは、トリポリのカダフィーの居宅を航空攻撃し、カダフィーは九死に一生を得ます。しかし、(恐らくこれに対する報復としてカダフィーの指示の下、)リビア人工作員が1988年にパンナム機をスコットランドの上空で時限爆弾を爆発させて墜落させ、乗員乗客及び住民あわせて270名を殺害します(ロッカビー事件。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%93%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6(6月10日アクセス))。カダフィー攻撃は何の「成果」ももたらさなかったことになります。
 第五に、レーガンのアフガニスタン(アフガン)政策です。
ゴルバチョフは、1985年にソ連の最高権力者となって間もなく、アフガンからのソ連軍の撤退を密かに決意します。レーガン政権が、カーター政権に引き続き、アフガンの反政府勢力にカネに糸目をつけずに武器援助をしていることもゴルバチョフの決意を促した大きな要因の一つです。ゴルバチョフはソ連政権内部並びにアフガニスタンのナジブラ(Najibullah)親ソ政権との根回しを終えた上で、1987年初頭、米国に対し、ソ連軍を撤退させるので、米国も反政府勢力への支援をやめるように打診しますが、レーガンはこの話に乗ってきません。やむなくゴルバチョフはアフガンでソ連軍に大攻勢をかけさせます。この時、パキスタン国境近くのJajiでビン・ラーデンを含むアラブ志願兵のゲリラ50名とソ連兵200名との死闘が繰り広げられ、ビン・ラーデン自身負傷しつつ、ソ連兵を撃退します。その結果ビン・ラーデンは一躍ジハード英雄伝説の主になるのです。結局この攻勢に失敗したソ連は、1987年9月、米国に対し、ソ連軍撤退を通告し、米ソ共同してイスラム原理主義の勢力拡大に対処しようと呼びかけたのですが、レーガンは、これをソ連のアフガン敗戦の言い訳としか受け止めず、聞き流したのです。
そして1989年にソ連軍のアフガン撤退が完了すると、米国はアフガンに関心を失い、アフガンを放置します。1992年にはナジブラ政権が打倒され、更に1996年、タリバンがアフガンの政権を掌握します。ビン・ラーデンのアルカーイダはこのタリバン政権の庇護を受け、急速に勢力を拡大することになるのです。
(以上、http://slate.msn.com/id/2102243/及びhttp://www.afghan-web.com/history/chron/index4.html(6月11日アクセス)による。)

 以上から、レーガンの対中東イスラム過激派対策に全く一貫性がなかったことがお分かり頂けたことと思います。
(以上、特に断っていない限り、http://www.latimes.com/news/specials/obituaries/la-na-policy6jun06,1,5688193.story?coll=la-home-headlines(6月7日アクセス)による。)
レーガンは、現在米国が直面しているアルカーイダ系等のイスラムテロリストの脅威を芽のうちにつみ取ることを怠ったと批判されてもやむをえないでしょう。

<補論:レーガンの台湾政策について>

対ソ戦略の観点から行われた1979年のカーター大統領による中共との国交樹立(=対台湾断交)を受け、1982年に訪中したレーガンは、8月14日、台湾に対する武器の提供を次第に減らすことを約束した米中共同コミュニケに署名します。
翌1983年、レーガンは過ちに気付き、台湾政策を大幅に軌道修正します。
それが彼の行った「六つの保証(six assurances)」宣言です。すなわち、台湾への武器提供の終期は設定しない、台湾関係法を尊重する、台湾の主権に関する米国の立場は変更しない、中共の台湾に対する主権を認めない、台湾への武器の提供に関し中共と協議はしない、台湾と中共との間の仲介は行わない、ことをレーガンは宣言したのです。
その意義は、中共の脅威に晒されていた台湾の安全保障上の懸念を取り去ったことです。
その後、蒋経国が台湾の自由・民主主義化に安んじて着手できたのはそのおかげだと言っていいでしょう。
(以上、http://www.taipeitimes.com/News/edit/archives/2004/06/09/2003174388(6月10日アクセス)による。)

(完)