太田述正コラム#8190(2016.2.1)
<矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読む(その11)>(2016.5.18公開)
「そうした日米安保中心の国づくり、もっとはっきり言えば、軍事・外交面での徹底した対米従属路線をつくったのが、実は昭和天皇とその側近グループでした。・・・
⇒この類の主張を行ったのは、矢部が初めてではないところ、先回りして書いておきますが、こんな主張は、私見では、「横井小楠コンセンサスに基づく、明治維新以降の日本の戦前の体制をつくったのは、孝明天皇・明治天皇父子とその側近グループでした」と言うに等しい、陰謀論的ナンセンスです。(太田)
わずか20数年前の第一次大戦終結時に、・・・皇帝ヴィルヘルム2世が国際法上の根拠はあいまいなまま、戦争責任(開戦責任国ドイツの国家指導者としての刑事責任)を問われ、講和条約(ヴェルサイユ条約)127条のなかに、同皇帝を国際法廷で裁くことが明記されたのです。(清水正義「第一次世界大戦後の前ドイツ皇帝訴追問題」『白鷗法学』第21号/2003年)
日本もこの条約に調印しています。
そればかりか日本は主要戦勝国の一員として、英米仏伊とともにその裁判に裁判官を出すことが、同じ127条のなかで定められていたのです(ヴィルヘルム2世がオランダに亡命していたため、結局裁判は開かれませんでしたが)。・・・
⇒米国はヴェルサイユ条約を批准しなかったわけですから、当時のウィルソン米大統領には、(発言した時点にもよるけれど、)厳密に言えば発言権がなかったわけですが、同大統領は、ヴィルヘルムを、開戦責任ありとして処罰することは、国際秩序を不安定化し平和を失わしめる、として、オランダにヴィルヘルムを国外追放させ(て裁判を受けさせ)ることに反対しています。
なお、英国については、(ヴィルヘルムの従兄弟である)英国王の反対を押し切って、政府はヴィルヘルムの国外追放、裁判を実現すべくオランダ政府に働きかけた
https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_II,_German_Emperor
のに対し、「フランス政府<は、>裏面でオランダ政府に働きかけ、ヴィルヘルム2世の引渡し要求に応じないよう助言している。
<ちなみに、>ドイツ政府が戦犯の引渡しを拒否したため、戦犯裁判<それ自体が、>国際裁判ではなく国内裁判で裁かれることにな<り、>1921年5月23日からはライプツィヒ戦争犯罪裁判が開催され、連合国が指名した、捕虜虐待容疑などの45人の戦犯が裁かれた<が、>有罪となった者の刑期はそれほど長くなく、死刑になった被告は一人も出なかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84 (太田)
<こういったことから、>昭和天皇自身が、自分に戦争責任があることは一番よくわかっていて、敗戦後、何度も退位して責任をとろうとしています(『裕仁天皇五つの決断』秦郁彦/講談社)。
昭和天皇の側近や皇族、外務省の幹部のなかにも、退位すべきだという人たちが数多くいました。
しかし結局、マッカーサーが退位させなかったわけです。
それは昭和天皇を使って戦後日本をコントロールしようという有力なシナリオが早くから存在し、その路線が占領政策のなかで最終的に勝利をおさめたからでした。」(120、122~123)
⇒ヴィルヘルムを退位させたのは、敗戦間近に革命状況に直面したドイツの政府自身(上掲)であったところ、ヴィルヘルムが皇帝のままでドイツが敗戦を迎えていた場合でも、ウィルソン米大統領すらヴィルヘルムの退位を求めていた(上掲)ことから、退位こそ余儀なくされていたでしょうが、上で紹介した理由に基づいてヴィルヘルムの訴追にはこだわらなかったウィルソンの態度からすれば、(米国がヴェルサイユ条約を批准しておれば、なおさらですが、)ホーエンツォレルン家の誰かが代わってドイツ皇帝ないしドイツ国王に就任することになっていた可能性が大だと思います。
何が言いたいかというと、米国だけをとれば、主要敗戦国の君主に対する姿勢は、第一次世界大戦時と第二次世界大戦時とで、それほど大きな違いはなかったのではないか、ということです。
(その根底に、主観的にはアングロサクソンの白眉であるところの米国の指導層には、後進欧州文明のリーダーたるドイツ、未開のアジアの成り上がり者たる日本、のそれぞれの民衆の跳ね上がり者達を抑制するためには、正統性のある酋長家の血筋の者を元首に据えておいた方が無難だ、という発想があるからだ、と私はふんでいます。)
そうだとすると、米国の立場に立ったとしても、昭和天皇を退位させるが極東裁判にはかけず、皇太子を天皇にする、という選択肢もありえた、と思うのです。(太田)
「<ところが、>昭和天皇とその側近グループは、そのままただの操り人形(パペット)で終わるような人びとではなかった。・・・
アメリカ側からの要求に対し100パーセント、ときに120パーセントこたえながら、そのうえで日本の国益をしたたかに確保していった。
⇒ここでも先回りして書いておきますが、「日本の国益をしたたかに確保していった」ではなく、私見では、「それが日本の長期的な国益に資するとの信念の下、天皇制の安泰を念には念を入れて確保していった」です。(太田)
そして最後はマッカーサーさえも飛び越えて、アメリカ本国と直接コンタクトし、「戦後日本(安保村)」の安全保障体制をつくりあげていくことになるのです。」(130~131)
⇒全ては、「天皇制の安泰を念には念を入れて確保」するためだった、と私は申し上げているわけです。(太田)
(続く)
矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読む(その11)
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