太田述正コラム#8192(2016.2.2)
<矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読む(その12)>(2016.5.19公開)
「<1945年>12月15日の国家神道廃止令に連動する形で、自分は神ではないという声明を10日後の12月25日、クリスマスの日に天皇に出させようという計画が<占領軍内で>立てられます。
そのあと人間宣言の英語の文案<(注15)>を日本側に伝えるとき、アメリカ側はこう言ったとされています。
(注15)人間宣言に関する日本語ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%AE%A3%E8%A8%80
の作成過程の説明は混乱していて出来が極めて悪い。
なお、「日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、詔書の主な目的だった。人間宣言については最終段落の数行のみで、詔書の6分の1しかない。その数行も事実を確認するのみで、特に何かを放棄しているわけではない。・・・
この・・・詔書により、天皇が神であることが否定された。しかし、天皇と日本国民の祖先が日本神話の神であることを否定していない。歴代天皇の神格も否定していない。神話の神や歴代天皇の崇拝のために天皇が行う神聖な儀式を廃止するわけでもなかった。」(上掲)
マッカーサー元帥もこの文案に目を通しました。
この声明が出ないと天皇の地位が危なくなるかもしれません」(『天皇家の密使たち 秘録・占領と皇室』高橋紘・鈴木邦彦/現代史出版会)』
これは・・・この2か月後、GHQ民政局が日本国憲法の草案を日本政府に渡したときの言葉とそっくりなのです。・・・
しかしそれは当然で、なぜGHQがそうしたかというと、このふたつの草案は、本当に昭和天皇を守るために、急いでつくられたものだったからです。・・・
敗戦から数か月たって、すでに昭和天皇はGHQの占領政策に絶対に欠かせない存在となっていました。
占領政策に非常に協力的で、政治的能力も高く、日本国民への影響力も絶大だった。
⇒このくだりに典拠が付されていないのは残念です。(太田)
しかし敗戦翌年の5月には東京裁判が始まることになっていて、うかうかしていると昭和天皇が起訴されて戦争犯罪人となってしまう可能性も残されていた。
ですから基本的には人間宣言も日本国憲法も、この時期に急いでつくられた最大の目的は、天皇を東京裁判にかけないように、国際世論を誘導するところにあったのです。・・・
人間宣言を出した1月1日の夕方、GHQ民間情報教育局(CIE)<(注16)>のカーミット・R・ダイク局長が、「政治から切り離した形で」「天皇制を存続させる」との意向をもっているという情報が、裏ルートから宮中に伝えられます(『側近日記』木下道雄/文藝春秋)。
(注16)Civil Information and Educational Section。「教育・宗教など文化政策を担当した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E9%96%93%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%95%99%E8%82%B2%E5%B1%80
ちなみに、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program、略称:WGIP)とは、・・・太平洋戦争(大東亜戦争)終結後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、以下GHQと略記)による日本占領政策の一環として行われた「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0
だが、この「WGIPの考え方は早くも昭和20年10月2日付一般命令第4号に表れて<おり、>「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を徹底せしめること」をGHQが日本政府に勧告している。
また、昭和20年12月21日付GHQ民間情報教育局(COE)のカーミット・R・ダイク[(Kermit R. Dyke)]局長のメモに、WGIPの目的は、一、東京裁判の必要性・正当性を周知させること、二、軍国主義を許容し、もしくは積極的に支持した国民にもその責任があることを知らしめること、三、そのうえで、侵略戦争を行なった日本国民に戦争を起こした罪の意識を植え付けること、と書かれている。」(竹田恒泰『日本人はいつ日本が好きになったのか』(PHP))
https://books.google.co.jp/books?id=QT6uAAAAQBAJ&pg=PT27&lpg=PT27&dq=%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BBR%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%AF&source=bl&ots=fOPVJfdHN9&sig=7Zu6954bWESlgQ7pVq-zTwaHBDw&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjw-cv_5NjKAhViMKYKHTDhCkcQ6AEIHDAA#v=onepage&q=%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BBR%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%AF&f=false
https://books.google.co.jp/books?id=Ba5hXsfeyhMC&pg=PA181&lpg=PA181&dq=Kermit+R.+Dyke&source=bl&ots=zAVSy0IKzL&sig=BgLhrWO-rkNOnc1tLggxHC71yxo&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjsqIqf6djKAhVGNqYKHYvRAqgQ6AEIKjAC#v=onepage&q=Kermit%20R.%20Dyke&f=false (Takemae Eiji. The Allied Occupation of Japan)([]内)
なお、ダイクについては、先の大戦中に主として宣伝放送に携わっていたところの、日本についての知識は余りない人物であったこと、GHQの同僚達からはアカがかっていると見られていたこと(上掲PP180~181)、くらいしか分からなかった。
さらに1月13日には、同局長の「天皇はみずから国内を広く巡幸されて、国民の声に耳をかたむけられるべきである」という意向も伝えられます。
その約1ヵ月後、2月19日から始まったのが天皇巡幸です。<(注17)>」(142~144)
(注17)「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね、旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、ということをね。それが生きた民主主義の教育というものだよ。
昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。 [「天皇家の密使たち-占領と皇室」、高橋紘・鈴木邦彦]
しかし、その結果は高官達の”期待”を裏切るものだった。昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。行程は3万3千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかった。
イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。
日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか?
欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。[天皇裕仁の昭和史、河原敏明]
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog136.html
ひとことで言うと、戦後日本という国は、昭和天皇を平和と民主主義のシンボルとする「日米合作」の新国家として、再出発することになりました。
そしてその新体制を日本国民は熱烈に支持した。<(写真が添付されている。(太田)>
原爆であれほど悲惨な目にあった広島市民でさえ、これほど多くの人々が熱烈に支持したのです。」
⇒巡幸までGHQの意向であったとは、私は知りませんでした。
(なお、これに続く箇所で、矢部は広島巡幸時の動画の話をしていますが、その動画がこれです。↓
https://www.youtube.com/watch?v=3iYTW3iTces )
日本人が昭和天皇を神であると思っているとの誤解に基づく人間宣言要求、及び、同じ誤解に基づき天皇がまさに唯の人間であることを日本人に確認させる狙いがあったと思われる巡幸要求、に象徴されるように、日米の両国民の間に、昭和天皇、ひいては天皇制について、ひどい認識の食い違いがあったことを踏まえると、矢部の主張、「戦後日本という国は、昭和天皇を平和と民主主義のシンボルとする「日米合作」の新国家として、再出発」した、には、かなりの違和感を覚えざるをえません。
後で改めて述べるように、日米の両国民の間に認識の違いがなくなったのは、その後、吉田茂ら外務省勢力、そして戦後大政翼賛会勢力・・自由民主党と社会党・・が、マスコミ操作や学校教育等を通じて吉田ドクトリンを日本国民に定着させてからだ、と私は考えているからです。(太田)
(続く)
矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読む(その12)
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