太田述正コラム#8194(2016.2.3)
<矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読む(その13)>(2016.5.20公開)
「五箇条の御誓文・・・が日本の民主主義の起源だという文章を、「天皇は神ではない」という文章の前につけ加えて、・・・クリスマス<ではなく>・・・元旦に発表することを昭和天皇は提案した。
なぜそんなことをしたのか。
そこには三つの意味がありました。・・・
まずひとつ目はそうした大きなアレンジを加えることで、自分はなにもGHQに言われてこの人間宣言を書いたのではない、というスタンスをとることでした。・・・
実にうまい。
実際は強制されているわけですが、主体的にやったという形をとって、天皇としての、また国家としてのプライドを見事にたもっている。
⇒「国家としてのプライド」の部分は、それこそ、これに続く下掲のくだりで矢部が言うところの、「明治以前<の歴代天皇の>・・・歴史」に照らして誤りです。
詳しくは、3月26日のオフ会の「講演」で説明する予定です。(太田)
日本の天皇というのは、明治以前は長らく、政治的実権をもつ権力者に対し、権力はないが権威はたもちつづけるという形で政権運営に協力してきたという歴史があります。
だからこのGHQに対する対応も、一朝一夕にできたものではなく、非常に洗練されているわけです。・・・
⇒このくだりについては、文面の限りにおいては、全く同感です。(太田)
ふたつ目の意味は、GHQの文案をバージョンアップ・・・して、神だとか神じゃないとかそんな問題よりも、重要なのは日本が明治時代から立派な民主主義国家だったということだと主張した。
この主張の背景には、日本人の意識にはほとんどのぼらないことですが、戦後ヨーロッパでは敗戦国の王室はすべて廃止されたという歴史的経緯があります。
現在ヨーロッパにはいろんな王室がありますが、それらはすべて戦勝国または中立国のもので、イタリア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーなど、敗戦国の王室はすべて廃止されました。
⇒イタリアの王制が廃止されたのは、1946年6月2日の国民投票によってです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1946%E5%B9%B4%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BB%83%E6%AD%A2%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%8A%95%E7%A5%A8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AC3%E4%B8%96
また、ブルガリアの王制が廃止されたのは、形の上では1946年9月8日の国民投票によって
https://en.wikipedia.org/wiki/Bulgarian_republic_referendum,_1946
https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Bulgaria
ですが、実質的には、事実上同国を占領していたソ連(上掲)によってであったと見るべきでしょう。
そして、ルーマニアの王制が廃止されたのは、1947年12月30日ですが、形の上では議会の人民共和国宣言があったとはいえ、
https://en.wikipedia.org/wiki/King_of_the_Romanians
文字通り、事実上同国を占領していたソ連(上掲)によってでしょう。
更に、ハンガリーの王制が廃止されたのは、1946年2月1日ですが、後はルーマニアと同様です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%8E%8B%E5%9B%BD_(1920-1946)
これらの王制廃止期日を見れば明らかなように、この4か国の王制廃止は、全て、人間宣言よりも後のことですから、千里眼を持ち合わせていなかった昭和天皇が、矢部の言うようなことまで考慮したはずがありません。
そもそも、この東欧4か国の王制廃止は、いずれも、「連合国」の要求によるものではなかった・・うち3か国については、「連合国」の一員たるソ連の独断による「要求」ならぬ実質的「指示」があったわけですが・・ことも忘れてはなりますまい。
ちなみに、ギリシャは、戦勝国であったけれど、結局、1967年・・正式には1973年・・に王制を廃止しているところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E7%8E%8B%E5%9B%BD (太田)
とくにイタリアの場合は、「王制」という遅れた政治形態がファシズムと結びついたのではないかという議論があった。
王制を残して本当に民主化できるのかという懸念が各国にあったわけです。
⇒イタリアの場合は、確かに、(「「王制」が遅れた政治形態」であるとの主張が広範にあったとは聞いたことがないものの、)王家たる「サヴォイア家がファシストへ協力したと<の>批判」は広範にあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/1946%E5%B9%B4%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BB%83%E6%AD%A2%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%8A%95%E7%A5%A8 前回
わけですが、東欧4か国にそんな批判が広範にあったということは聴いたことがありません。
従って、「王制を残して本当に民主化できるのかという懸念が各国にあった」とは言えそうもありませんし、いずれにせよ、そういった話と昭和天皇による人間宣言の枕部分とを結び付ける矢部の論理は、昭和天皇の贔屓の引き倒しであり、強引過ぎるというものです。(太田)
しかし日本は王制(天皇制)であっても、このとおり明治時代から民主的な立憲君主制でやってきた。
だから今後もイギリスのような立憲君主制の民主国家として、じゅうぶんやっていくことができる。
これは国際世論へのアピールとして120点なわけです。
GHQの要求を超えるような回答を出した。・・・
さらに三つ目。
ここがもっとも重要なのですが、そのなかで皇室と日本の国益もきちんと確保している。
⇒「皇室と日本の国益もきちんと確保している」は、そもそも文章になっていませんが、先ほども指摘したように、「日本の国益」に言及している部分は「明治以前<の歴代天皇の>・・・歴史」に照らして誤りです。(太田)
つまりGHQの国際世論へのアピールは全部後ろ向きなわけです。
人間宣言、ヒロヒトはもう神じゃないから力もない。
憲法第1条、象徴天皇だから政治力もない。
第9条第2項、そもそも日本自体が戦力を放棄したから軍事的脅威もない。
だから助けてやってくれ。
見逃してやってくれ。
しかし昭和天皇とその側近グループは、そうしたネガティブなシナリオだけでは戦後日本の繁栄も皇室の繁栄もないと考えたのでしょう。
⇒「戦後日本の繁栄も」についても、やはり、「明治以前<の歴代天皇の>・・・歴史」に照らして誤りです。
ここでその理由を簡単に説明すれば、天皇制存続の危機に直面している時に、日本の「国家としてのプライド」だの「国益」だの「繁栄」だのまで追求することは、大きな政治的責任を背負うことを意味し、中長期的に天皇制存続の危機を招来しかねないのであって、そんなことは、昭和天皇を含む、歴代の天皇やその側近達にとって自明のはずだからです。(太田)
ポジティブなシナリオを示した。
日本の天皇制は明治時代からイギリスと同じく、民主的な立憲君主制を実現してきた。
戦争になったのは一時的に軍部が暴走したからで、それを止められなかった責任はあるが、基本的に天皇自身は開戦に反対だった。
⇒私は不同意です。
元首としての形式的な道義的責任はともかくとして、第一に、英国流の立憲君主たる自覚があった(典拠省略)昭和天皇が、戦争について、政治的責任はあると考えていなかったことは、天皇自身の言(注18)からほぼ断定できそうですし、第二に、昭和天皇が「戦争になったのは・・・軍部が暴走したから」だと考えていなかったことも、軍令面でそう考えていたとすると軍令権者として責任をとろうとしたはずですし、そうではなく、軍政面でそう考えていたとすると明治維新「以来」日本は民主主義だったとの自らの主張からしてそれを許した国民一般に対する批判になってしまうことから、ほぼ断定できそうだからです。(太田)
(注18)「中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。
天皇陛下:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。」(日本記者クラブ記者会見(1975年10月31日))
http://www.jnpc.or.jp/img_activities/img_interview/img_specialreport/specialreport_19751031.pdf
だから今後はまた天皇のもとで、軍部の暴走以前の体制にもどり、イギリスやアメリカなど、世界の民主勢力と力を合わせ、民主的な天皇制でがんばってやっていけば、日本は必ず復興する。・・・
その後の高度成長期を支えた日本人の歴史観というのは、このとき昭和天皇が「人間宣言」のなかで表明したこのロジックにもとづいています。
つまり、
一、明治時代:民主主義にもとづいた正しい時代
二、昭和初期:軍部が暴走した間違った時代、突然変異的な時代
三、戦後日本:本来の民主主義にもどった正しい時代
という歴史観です。
敗戦後もなお天皇制が、そして天皇制日本が、ふたたび反映し存続していくためには、天皇が神であることを否定するだけでなく、
「この二、の機関だけが、突然変異的な時代だった」
とする歴史観がどうしても必要だった。・・・
こうして戦前戦中の軍国主義に関して、悪かったのは軍部の暴走だけだったとするこの日米合作の歴史観を、日本国民も受け入れていきました。
思えば20年前に亡くなった司馬遼太郎さんという大歴史小説家がいて、私も昔は好きでよく読んだものですが、司馬さんの描いた小説世界と歴史観は、まさにこの「人間宣言」で書かれたロジックそのままだったと言えます。」(148~152)
⇒昭和天皇は、断じて、司馬遼太郎史観になど拠っていなかったし、前述したことから、拠りうるはずがなかったのです。(太田)
(続く)
矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読む(その13)
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