太田述正コラム#0380(2004.6.14)
<移民礼賛:英国篇(その2)>
3 イギリスと移民
(1)始めに
イギリスの歴史は、このようにアングロサクソン移民の受け入れをきっかけにして始まっただけでなく、イギリスはその後も多様な移民を次々に受け入れてきたことによって、活力を失わずに現在に至っているのです。
今年、Robert Winder, Bloody Foreigners: The Story of Immigration to Britain, Little, Brown という本が出ているので、この本を参照しつつ、このことをご説明しましょう。
(以下、特に断っていない限り、http://books.guardian.co.uk/extracts/story/0,6761,1213247,00.html、及びhttp://books.guardian.co.uk/extracts/story/0,6761,1213040,00.html(どちらも5月27日アクセス)、並びにhttp://books.guardian.co.uk/reviews/politicsphilosophyandsociety/0,6121,1236774,00.html(6月13日アクセス)及びhttp://216.239.53.104/search?q=cache:NUsk_tkW1dwJ:enjoyment.independent.co.uk/books/reviews/story.jsp%3Fstory%3D525556+Sir+John+Woolley&hl=ja(6月14日アクセス)による。)
(2)イギリスの反移民史
とはいえ、イギリスにも反移民的な動きがなかったわけではありません。
中世にはイギリスのユダヤ人は迫害され、黄色い布きれを付けさせられ、虐殺され、1290年にはユダヤ人追放令が発せられています。
1440年から、移民には特別の税金がかけられるようになりましたし、1456年と1457年には立て続けに反イタリア移民暴動が起こっています。1517年に起こった反移民暴動の後には、移民には通常の市民の税金の倍の税率が適用されるようになりました。
1530年にはヘンリー8世が、ジプシー追放令を発しています。
ずっと時代が下って1836には、アイルランド飢饉による大量のアイルランド移民について、王立委員会は、「汚さ、放任、混乱、不快、及び不健康(filth, neglect, confusion, discomfort and insalubrity)」をイギリスに持ち込んだ、と報告書に記しました(注5)。
(注5)実際のところは、これらはアイルランド移民のせいでも何でもなく、1800年から1840年にかけて英国の人口が二倍に急増したことに伴うひずみだった。もとより、イギリス人のアイルランド人に対する差別意識があったことがかかる記述を生んだことは想像に難くない(コラム#356参照)。
1886年に宰相ビスマルクがプロイセンからユダヤ人を追放すると、これに呼応するかのようにロシアは1890年にモスクワからユダヤ人を追放し、東欧でユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れ、英国にも、1881年から1914年までだけで150,000人ものユダヤ人が避難してきます。その結果、英国のユダヤ人人口は300,000人に達しました。
ロンドンのイーストエンドにはユダヤ人ゲットーが出現し、劣悪な居住環境の下、人々は家内工業で長時間の過酷な肉体労働に従事し、多くの女性は苦界に身を沈めました。
このままでは英国は移民で溢れてしまう、と反移民的風潮が高まります。
作家・ジャーナリスト・社会学者・歴史家にしてフェビアン社会主義者であったH.G.ウェルズ(Herbert George Wells。1866??1946年。http://www.kirjasto.sci.fi/hgwells.htm(6月14日アクセス))は、1898年に移民の襲来を火星人の襲来に託して書いた「宇宙戦争」(The War of the Worlds)を上梓し、1902年には劣等人種を根絶するための優生学について熱っぽく語っています。また、同じ頃に作家のD.H.ローレンス(David Herbert Lawrence。1885??1930年。http://mss.library.nottingham.ac.uk/dhl_biog_brief.html(6月14日アクセス))は、「病人、びっこ、かたわ(the sick, the halt, the maimed)」をみんなかっさらってきてぶち込む、クリスタル・パレス並に大きい死の収容所(lethal chamber)を作りたいものだ、と語っています。
こういった声に推されて、1905年には、当時の保守党政権は、英国史上初めて移民を制限する法律である外国人法(Aliens Act)を制定するのです。(注6)
(注6)ウェルズやローレンスが語ったことが、あたかも未来を透視したかのように、すべて米国を経て(コラム#257)ナチスの手によって現実のものとなったことを我々は知っている。
しかしながら、英国が移民で溢れてしまうといった懸念は全く根拠のないものだった。当時の英国は、外国への移民が盛んであり、1871??1910年の間に移民した英国人は200万人にものぼり、移民してきた人数をはるかに上回っていたからだ。
(3)イギリスの移民擁護論
他方、イギリスでは早くから移民を擁護する論者に事欠きませんでした。
例えば、エリザベス1世晩年の議会で、Sir John Woolleyは、「彼らは今異邦人(strangers)だ。しかし、将来我々が異邦人となることがあるかもしれない。だから、その時に我々がして欲しいことを彼らにしてあげようではないか。」と演説しています。
また、ロビンソン・クルーソーの著者のダニエル・デフォー(Daniel Defoe。1660??1731年。http://www.kirjasto.sci.fi/defoe.htm(6月14日アクセス))は、熱烈な移民擁護論者であり、1700年に、「純正なイギリス人(True-Born Englishman)など自己矛盾(Contradiction)」であり、「語られるとすればそれは皮肉だし、書かれるとすればそれは虚構だ」とし、「イギリス人は雑種(heterogeneous thing)」であり、「その熱き血潮の中には新しい血が常に注がれているのだ」と書いています(注7)。
(注7)デフォーは、「クルーソー」という姓は、ドイツのブレーメンからの移民だったロビンソンの父が「クロイツナウアー(Kreutznauer)」という旧姓を改称したものだ、とわざわざロビンソン・クルーソーの導入部で書いている。移民の子、ロビンソン・クルーソーが、後に英国人の工夫力と自活力の象徴となったのは興味深い(http://www.campusnut.com/book.cfm?article_id=766§ion=7。6月14日アクセス)。
また、1905年の外国人法制定(上述)に反対して若きチャーチル(Winston Churchil。1874??1965年。http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/ChurchillWinston/(6月14日アクセス))は、移民の「自由な入国と避難(を認める)という古よりの寛容かつ寛大な慣習」を放棄するに足る理由はない、という文章をタイムス紙に寄稿しています。
(続く)